1月24日23時05分そして1月25日0時00分
喉が痛い…。腫れて熱くなっているのが分かる。
息が苦しい…。呼吸をする度に肺が痛い。
身体が熱い…。発熱した身体が重くて、まるで自分の身体では無いようだ。
「海馬…っ。海馬…っ!」
耳元で大きく名前を呼ばれているのが気になって仕方が無い。その声に応えたくて、気怠くて再び沈みそうになる意識を何とか掻き集めて、重い瞼をそろりと開いた。ぼやけた視線の先に金色の頭が見えて、次いで心配そうな顔をしている城之内の顔がクリアになる。今まで見た事も無いような必死な表情だった。
「………?」
状況が理解出来なくて視線を巡らせてみれば、そこは普段使っているベッドの上だという事が分かる。部屋は暗く外も静かなので、どうやら今は夜らしい。
もっと良く周りを見ようとゴソリと身体を動かしてみれば、節々が痛んで自由に動けなかった。身体全体が汗でびっしょり濡れていて気持ちが悪い。「はぁ…」と大きく息を吐き出すと、城之内が手を伸ばして来て、汗で重たくなった前髪を掻き上げてくれた。途端に夜の冷気によって額がひやりと冷え、それがとても気持ち良い。
「海馬…っ! 良かった…。漸く目を覚ましてくれたな。大丈夫か?」
「じょー…?」
如何にもホッとした感じのその言葉に、オレの事を覗き込んでいる城之内の顔をじっと見詰めてみる。
ふと…心底心配そうにオレを見守るその表情に、あの犬の事を思い出した。痺れて動きにくい手を掛け布団からゆっくりと持ち上げて、荒れた金髪に触れてみる。側頭部の辺りを探って、あの温かい茶色い耳を捜してみるがどこにもない。視線だけで城之内の身体全体を見渡してみても、あのブンブンと左右に振られていた尻尾も消えていた。
何故急に消えてしまったのか…。理解出来なくて痛む喉から掠れた声を出す。
「お前…耳は…どうし…た…?」
「はい?」
「尻尾も…無くなって…」
「か、海馬? 何言ってんの…?」
キョトンとした城之内を見詰めながら、触れていた金髪をサワサワと撫でる。荒れた髪が指先に引っかかった。
おや…? この金髪はこんなに荒れていただろうか…? 確かもっと柔らかかった筈だが…。あぁそう言えば…何故この城之内は人の言葉を喋っているのだろう…?
色々と疑問に重いながらも、その荒れた感触が気に入って城之内の頭から手を離す事が出来ない。
「おい…」
やがて暫くして、それまで黙って頭を撫でられていた城之内がしかめっ面をした。不思議そうに頭を撫で続けるオレの手を握って、視線を近付ける。
「海馬…お前…。オレが犬になった夢とか見てたんじゃねーだろうなぁ…」
「ゆ…め…?」
「あんなに酷く魘されていたから、悪夢を見てるんだろうと思って必死に起こしてやったってーのに。ホント…可愛くねぇ奴」
「夢…だと…? オレが…魘されて…いた…?」
「そうだよ。風邪ひいてるってーのに無理して仕事なんかしやがって。あの後高熱でぶっ倒れたってモクバから聞いて、オレがどんだけ心配したか」
「あの…後…?」
「覚えて無いのか? ほら…この間の二十一日の夜だよ。ちょっと喧嘩しただろ…オレ達」
二十一日…だと? それは一体いつの二十一日の事なのだろう…。
オレの知っている一月二十一日は、今から一年前の一月二十一日の筈だ。素直になれず…城之内と喧嘩してしまった、あの一月二十一日。あの喧嘩が元で城之内は自分の誕生日に新聞配達のバイトに出掛け、そして事故に遭って死んでしまった…。
オレはそれを一年後の一月二十二日に知って…、気付いたらそこはもう既に城之内の居ない世界だった。
「次の日、いつまでもお前が起きてこないからさ。心配したモクバが様子を見に行ったら、物凄い高熱を出して意識不明で唸ってたらしいんだ。オレの処にも連絡が来たから直ぐさま駆けつけたんだけど、大変だったんだぜ? お前は目を覚まさないしモクバは心配して泣くしで…って、海馬?」
城之内が長々と何かを説明していたが、それはオレの耳を素通りしていく。オレの意識は、今別なものに捕われていた。
冷たい雨。芝生の中にポツンとあった城之内の墓。真っ黒い土。掘っても掘っても城之内は出て来ない。絶望感…そして哀しみ。
「っ………! うっ…!!」
突如、先程まで忘れていたあの寒さを思い出して身震いをする。同時に眼の奥が熱くなって、涙がボロボロと流れ落ちてきた。震える手で顔を覆い、嗚咽を堪える。
目の前でオレの顔を見詰めていた城之内は、オレの涙に一瞬ギョッとした表情を見せた。そして慌てたようにオレの肩を掴んでくる。
「海馬…っ。ど、どうした? 大丈夫か? どこか…痛いのか?」
城之内の問い掛けに何とか首を振る。けれど、オレは今自分がどこにいるのかが分からなかった。
城之内がいる。目の前にちゃんと存在している。だがこれは果たして何なのだろう。夢なのか…現実なのか…、熱で朦朧とした頭では整理が付かない。
「夢…っ。夢…なのだろう…?」
肩を掴む掌が痛い。そして熱い。あの冷たい世界の中で、あんなにも望んだ熱が今ここにある。
それなのにこの熱が夢のように感じられてならなかった。
「本当は…現実では…お前は死んで…っ。犬が…お前に見えて…っ」
「どうした海馬。何言ってるんだ。やっぱり悪い夢を見てたのか…?」
「夢じゃ無い…っ! あれは…現実…っ! お前が死んでからもう一年も経っていて…」
「死んでって…おい。オレは別に死んで無いぜ? 人を勝手に殺すなよ」
「だけど…もう…っ」
「死んで無いったら。オレ、ちゃんと今生きてるだろ? お前は悪い夢を見てただけだよ。ほら、こっちが現実だ」
自分の目の前にいる城之内がちゃんと存在しているのか、今が夢か現実か、頭が混乱してさっぱり分からない。だが城之内はそんなオレの身体を抱き起こして、強く抱き締めてくれた。
身体全体に染み渡る城之内の熱…。その熱が至極心地良くて、恐る恐る広い背中に手を回して着古したパーカーの布地を握りしめた。そうすると城之内はますます力を入れて抱き締めて来る。それは全身の骨が軋む痛みを感じる程だった。
「い…痛い………」
堪らず痛みを訴えると、城之内が耳元でクスリと笑う気配が伝わってくる。
「痛いだろ? だったらこっちが現実だ」
「城之…内…?」
「可哀想に。よっぽど怖い夢を見てたんだな…。熱…高かったからな。そういう時は変な夢に魘されちゃったりするから仕方無い。だけどもう大丈夫だ。こっちが現実だ。もう怖い夢は見ないからな」
「夢…? あれが…?」
「そう、夢だよ。オレの事…分かるだろ? ちゃんと…生きてるだろ?」
城之内が少し身を離し、緩んだオレの片手を掴んで自分の喉に押し当てた。指先から伝わる確かな体温、そして鼓動。トクン…トクン…と命のリズムが刻まれている。
「生きて…いる…」
「うん」
「本当に…夢…だったのか…?」
「そうだよ」
「お前は…生きている…? 本当に…ここにいる…?」
「あぁ、いるよ。ちゃんとお前の側に…いるよ」
視線を合わせた城之内が、そう言ってニッコリと微笑んだ。明るくて優しい笑み。あの冷たい世界の中、雨に濡れた黒土の中に消えたと思われた笑み。それが今ここにある…。
「海馬。お前が見てたのはただの夢だ。怖い夢だったんだ」
そう…。現実の…ものとして、城之内の笑みが確かにそこにあった。
「うっ…! あぁっ…!」
収まりかけた涙が再び溢れてくる。今度は嗚咽も我慢する事が出来ない。
「ふっ…あっ…! あ…ぅ…あ…っ!!」
しゃっくり上げて痛む喉から嗚咽を漏らすオレを、城之内は優しく抱き締めてくれた。その途端、またあの熱と…懐かしい匂いに全身が包まれる。
そうだ…。これは城之内の匂いだ。懐かしくて愛おしい…城之内の…熱と匂い。
「うぁっ…! あ…あぁっ…!! うっ…ふっ…! うあぁ…ぁ…あぁっ―――――っ!!」
そうだ…これは現実だ…。こっちが現実なのだ…。
その事実を理解し心から安心した途端、オレはもう我慢が出来なくなってしまった。城之内の肩口に顔を埋め、大声で泣き叫ぶ。
「じょ…の…うちっ…! ひっく…! じょ…うちぃ…っ!! うぁぁっ…!!」
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫だから…安心しろよ」
大声で泣き続けるオレの背中をポンポンと叩きながら、城之内が優しい声で囁いてくれる。大きな掌で何度も背中を撫でられる度に、オレは安心してまた新たな涙が零れてきた。
途中、オレの大声に驚いたモクバが駆けつけて来たようだったが、城之内が「大丈夫だから」と言って宥めていた。弟の前でこんな醜態を晒す事は酷く恥ずかしい事であったが、それでも止まらない涙を隠すように城之内に肩口に顔を押し付ける。
「大丈夫だよ…海馬。オレが側にいるからな」
あの冷たい世界でオレがあんなに欲しいと思っていた熱は、ずっと感じていた恐怖心をゆるやかに消していった。そしていつの間にか、冷たい雨と黒い土の悲しい記憶は…オレの中で薄れていったのだ。
オレが目覚めた事をモクバが報せたのだろう。すぐに掛かり付けの主治医が遣って来て簡単な診察をし、安心したように「もう大丈夫ですよ」という言葉を残して帰って行った。夢の中と同じような状況に、またあの悲しい感覚を思い出して眉を顰める。だが夢と違うのは、視線を巡らしてみればすぐそこに城之内がいるという事だった。今はベッド脇の椅子に座って、微笑みを浮かべてオレの顔を見詰めている。
「良かったな。後はちゃんと食事をして薬を飲んでゆっくり眠れば、体調も元に戻るってさ」
オレにそう語りかけてくる城之内の声は、先程よりずっと落ち着いていた。その声に小さく嘆息する。
大泣きした後、冷たい水を飲んで喉を冷やし、医者の診察を受けたオレは随分と落ち着きを取り戻していた。未だ熱は高かったが(ちなみにこの時点で三十八度五分だった。倒れた時は四十度近くあったらしい…)、頭の中もそれなりにクリアになっている。お陰で先程まで混乱状態だった意識も落ち着いて、大分冷静に物事を考える事が出来るようになっていた。そしてオレは思い出したのだ…。
一月二十一日の夜、城之内と言い争った事を…。
「そう…か…」
力無く応えるオレの頭を優しく撫でながら、城之内はニコニコとしている。
「うん。もうあんまり無理はするなよ。心配だからさ…」
「心配…? オレの…か…?」
「当たり前だろ。恋人なんだから」
「別れるんじゃ…無かったのか?」
「…え?」
「『消え失せろ』と…そう言った。だからお前はそれに怒って…オレの前から消えたんじゃなかったのか…?」
オレの言葉に城之内は「あー…」と何かを言い淀みながら、後頭部をガシガシと掻いていた。それは城之内が何かに困った時にする癖だ。
懐かしい…城之内の癖。これが見られるのも彼が生きているからなのだ…と、何となくそう思う。そしてその事が、至極嬉しいと思った。
「ゴメン。オレもあの時は頭に血が昇っちゃってさ…。本当はあんな事言うつもり無かったんだよ…。その…悪かったな」
「………。いや…もういい…」
「許してくれる?」
「許すも何も…。本当に悪かったのはオレの方だ…」
「いや、オレも悪かったんだよ。オレさ、お前が意識不明の間にモクバから色々聞いたんだ。お前がずっと忙しそうにしてたのは、オレの誕生日を一緒に過ごす為だったって事をな…。そうとも知らずに無責任な事を言って悪かった。体調崩してたのだって、無理して仕事してたからだろ? やっぱオレの所為だよな」
「それは…違う…っ!!」
「海馬…?」
「お前の所為では…無い…! 体調を崩した…のは…自己管理が成っていなかった…からだ…!! 自分で勝手にストレスを溜めて…勝手にお前の所為にして…いたんだ…! お前の所為では無い…っ! 自分の所為なのだ…っ!! っ…! ゲホッ…ゴホッ…!!」
まだ痛む喉から無理に大声を出したら、喉が引き攣って咳が出た。慌てた城之内に背中を撫でられて、サイドボードの上に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを手渡される。コクリと冷たい水を一口飲んで、水が胃に流れる感触にホッと一息を吐く。
「急に大声出すな…。それで無くてもさっきの大泣きで声帯痛めてんだぞ、お前」
「………。すま…ない…」
「まぁ、別にいいけどね。あとはゆっくり休むだけだし。んじゃ、オレはそろそろ帰るかな?」
「え…?」
突然の言葉に、オレはベッド脇の椅子から立ち上がる城之内から視線が外せなかった。
「いや、お前も無事に目を覚ましたしさ。これ以上ここにいると、お前の迷惑になるだろ?」
「だ…だが…、こんな夜中に…」
「自転車で来てるから大丈夫。お前はオレの事なんて心配してないで、自分の風邪を治す事に専念してろ。いいな?」
「けれど…っ」
とっさに掴んだ城之内のパーカーの裾をギュッと強く握りしめながら、ベッドサイドのデジタル時計に視線を走らせた。時刻はあと数分で二十五日に変わろうとしている。
「あ…明日…は…?」
何となく嫌な予感がして、城之内を引き寄せながらそう尋ねた。引き寄せられるまま素直に近寄って来た城之内は、少し困ったように笑っている。
「明日? そうだなぁ…。明日は午後からまた見舞いに来るよ。仕事なんかしてないで大人しくしてろよ?」
「午後から…? 朝は…どうするのだ…?」
「うーんと…朝は寝てるだろうなぁ…。お前が具合悪くなっちまって、予定が変わっちゃったからな。明日は普通に新聞配達の仕事に行こうと思ってる」
城之内の台詞を聞いて、全身が凍り付いたように固まってしまった。途端にあの冷たい世界の事を思い出す。
『年が明けて城之内の誕生日間近に兄サマと城之内は喧嘩して…、そして仲直りする前に城之内が不慮の事故で死んじゃったんだろ?』
『でも死んじゃったんだよ! 二十五日の早朝に!! 居眠り運転のトラックに轢かれて…っ!!』
『城之内君…ずっと楽しみにしてたんだ。二十五日はずっと海馬君と過ごすから、その日は新聞配達の仕事も休むんだって。でも君達が喧嘩しちゃって…それで予定も全部パーになっちゃって…。それで城之内君は渋々自分の誕生日だっていうのに、新聞配達の仕事に行ったんだよ』
『トラックの運転手さんは居眠りしてた。だから横断歩道を渡ろうとしている城之内君に気が付かなかった。気が付いた時には…もう…っ』
モクバと…そして遊戯の声が脳裏に響く。
あの世界では、城之内は二十五日の早朝に死んだ事になっていた。新聞配達の帰り道、配達所の近くの交差点で居眠り運転のトラックに轢かれて死んでいる。
大分冷静になった今では、あの冷たい世界はただの夢だったと理解出来ている。高熱による意識の混濁。それが悪夢の正体。
だけれども…っ。何故かは知らないが、今城之内を帰してはいけないと思った。
「ダメだ…っ」
城之内の腕を強く掴んで、フルフルと首を振る。
「ダメだ…行くな…っ!!」
「海馬…?」
「どこにも行くな…っ! オレの…側にいろ…っ!! 頼む…城之内!!」
大声を出して再び咳き込みながら、それでもオレは必死にその腕に縋り付いた。城之内は驚いたような顔をしてオレを見詰めていたが、やがてフッと笑みを零すと、先程と同じように優しく背中を撫でてくれた。そしてフワリと抱き締められる。
「仕方無いな…。お前にそう言われちゃ、オレはどこにも行けねーよ。ちゃんと側にいてやるからもう眠れ…」
起き上がった身体を再び布団に戻されながら、それでもオレは城之内から視線を外せずにいた。少しでも目を離したら、コイツがどこに消えてしまいそうで…。
そんなオレの視線に気付いた城之内は少し嬉しそうに笑って、掛け布団の上からオレの胸の辺りをポンポンと軽く叩き始めた。
「具合が悪くなると人恋しくなるっていうか…不安になるのは、お前も一緒なんだな。ちょっと意外だけど、何か安心した」
「ち…違う…。そんなんじゃ…」
「うん、分かってる。大丈夫だよ。具合が悪くて、その所為で怖い夢見て…。少し不安になってるだけだもんな。一晩ぐっすり眠ったら、きっと明日には元のお前に戻ってるよ」
「ここに…いろ…」
「分かってるって。どこにも行かないでちゃんとここにいるから、安心して眠っちゃいな」
「城之内…」
「ん? 何?」
羽毛布団の温かさと城之内が胸を打つ規則正しいリズムにウトウトと眠くなりながら、視線を向けたデジタル時計の表示が変わったのを確認した。眠る前にどうしてもこれだけは伝えておきたくて、重たくなってきた瞼を無理矢理開き、布団の中から手を伸ばす。その手を熱い掌が掴んでくれたのを確認して、オレは至極幸せな気持ちで口を開いた。
「誕生日…おめでとう…」
「え…? ち、ちょっ…! 海馬…っ!?」
オレの言葉を聞いて焦る城之内に応える余力はもう残されていない。けれど、沈みゆく意識の中、繋がれた手がキュッと強く握りしめられたのを感じて心から安心した。
熱はまだ高かった。喉が焼けるように熱く酷く痛んで、頭の芯がボーッとして身体は気怠く重い。
それでももう、あの城之内が居ない冷たい世界がやって来る事は二度と無かった。
「海馬…。おやすみ…」
耳元に優しい声が降ってくる。掌に伝わってくる確かな熱にその存在を強く感じながら、オレは安心して眠りに就いた。