1月23日13時15分
今から数分前、「もうすぐ着くから用意して待っててね」という遊戯からの電話があり、オレは自室で窓の外を眺めながら遊戯が来るのを待っていた。外はあいにくの天気で、冷たい冬の雨がシトシトと降っている。雪にならなかっただけマシだったのかもしれない。
今朝起きてから遊戯に「墓参りに行く。迎えに来い」という電話をした時、遊戯はオレの体調が良くなった事を素直に喜んでいた。だが実はそこまで良くなった訳では無い。
喉は相変わらず腫れて痛かったし、まだ熱があって身体も気怠い。面倒臭くて体温を測ってはいなかったが、多分まだ三十八度前後はあるだろう。身体はベッドでの休息を訴えていた。
それでもオレは、その訴えを無視して出掛ける準備をする。自分が作ったという城之内の墓を、この目で確かめておきたかったのだ。
「今日は雨だよ。病み上がりなんだし、また今度にしたら?」
そう言って渋るモクバを、もう大丈夫だと言い聞かせる。何故だかは知らないが、今すぐにでも確かめなければならないような気がしていたのだ。
最初は出掛ける事に反対していたモクバも、やがてオレのしつこさに根負けし、呆れつつも墓参りを承諾してくれた。そして一時間程後に、オレの喪服と白い花だけで作られた花束を持って現れた。
「普段着でも全然良いんだろうけど…。でも、兄サマにとっては初めてのお墓参りだからね。一応ちゃんとした格好をして行った方が良いと思うんだ」
こうしてオレは黒い細身のスーツに全身を包み、遊戯が来るのをじっと待っていた。ソファーの上にはモクバが持って来てくれた花束が置かれている。
カサブランカを主軸として、白い薔薇と雛菊と小菊。トルコ桔梗だけほんの少し紫が入っており、全体をかすみ草が覆っている。薄紫のリボンで纏まったそれは、まさしく死者に手向けられる為の花束だった。
ソファーの下で寝そべっていた城之内がのそりと起き上がり、その花束の匂いをクンクンと嗅いで、そしてまた興味無さそうに伏せてしまう。その一連の動作に、思わずクスリと笑いが零れた。
どう見ても城之内にしか見えない姿。だがこの城之内の事を、皆はゴールデンレトリバーだと言う。モクバも邸にいる全ての使用人も、皆が皆口を揃えてそう言うのだ。試しに昨日帰る間際の遊戯にも聞いてみたが、アイツも同じような事を言うだけだった。
「何って…確かゴールデンレトリバーって言うんだっけ? よく知らないけど凄く頭の良い犬なんでしょ? 盲導犬とかでよく見かけるもんね」
そう言って優しく頭を撫でる遊戯に、城之内は嬉しそうに尻尾を振っていた。だが気を良くした遊戯がその首に抱きつこうとしたその時、城之内はヒラリと身を翻して数歩後ろに下がってしまった。そしてオレの側まで寄ってくると、ぺたりと地面に伏せてしまう。
それを見て遊戯は、苦笑しつつ小さな溜息を吐いた。
「やっぱりダメだね。ジョーは海馬君以外には本当に心を許してくれないみたい」
少し寂しそうにそんな事を言って、遊戯は帰って行った。試しにその後そっと城之内の首に抱きついてみたが、今度は逃げることなく大人しくしている。それどころか視界の端に入る尻尾が激しく左右に振られているのが見えて、少しだけ驚いた。
「お前は…本当に城之内では…無いのか…?」
問い掛けても答えは返って来ない。ただ嬉しそうな顔をした城之内に唇をベロリと舐められるだけだった。
どう見ても犬のような行動…。決して返って来ない言葉。
それがこの城之内が、ただの犬だという事をオレに教えていた。それなのに、どうしても信じる事が出来ない。目の前の城之内がオレを見詰める瞳の強さが、あの城之内と全く同じだったからだ。
ドアの外からメイドが遊戯の来訪を告げる。オレは「今行く」と簡潔に伝え、ソファーまで歩み寄ってそこに置かれていた花束を手に取った。
「クゥン…」
オレの気配に気付いた城之内が小さく鳴いて顔を上げる。心配そうに見詰めてくるその顔に笑みを返し、そっと金色の頭を撫でた。
「お前の…墓参りに行ってくる。すぐ帰ってくるから…」
オレの言葉に対する城之内の返事は無い。ただ何度か瞬きをし、諦めた様に再びその場に伏せてしまう。城之内のふて腐れたような態度に苦笑し、その頭から手を離して振り返った時だった。
ふわり…と、何か優しいものが自分の頭に触れたような気がした。慌てて上を見上げても何も無い。ただ…気のせいかもしれないが、頭の中に『早く戻って来い』という城之内の声が聞こえたような気がした。
「城之内…っ!?」
名前を呼んでみても、それに応える声は勿論無い。絨毯の上に寝そべっていた城之内だけが、また心配そうにオレを見詰めるだけだった。
迎えに来た遊戯と共にリムジンに乗り込み、十分程で例の墓地に辿り着いた。
シトシトと降り続ける雨に眉を顰め、オレは花束を小脇に抱えると傘を差して表に出る。反対側のドアから同じように外に出た遊戯の後を追いながら、墓地をぐるりと見渡してみた。
安い市営墓地とは違う、静かで整えられた環境。一面に芝生が敷かれ、四季の木々や花々がそこかしこに植えてある。通路にはタイルが敷かれ所々に屋根付きの休憩所等もあり、墓地と言うよりは公園のようだ。春や夏にはこの芝生は青々と茂っているのだろう。けれど真冬の今は茶色く変色し、今は冷たい冬の雨に静かに打たれている。
墓地の入り口にある受付で慣れた手付きでサインをした遊戯は、オレを連れてどんどんと奥に進んでいった。奥に足を踏み入れるに従って、ポツポツと墓石が目に入って来る。和風の墓石より圧倒的に洋風の墓石の方が多い。しかも大きな墓石等は殆どなく、芝生の上に直接石のプレートが嵌め込まれているタイプが多かった。
「城之内君のお墓は一番奥の方だよ」
少し立ち止まったオレを振り返って、遊戯がそう口を開く。バラバラと傘を叩く雨粒の音に混じって、その声は至極静かにオレの耳に入ってきた。
「海馬君がなるべく静かで景色の良い場所をって事で選んだんだって。結局墓石と場所を選んだだけで、海馬君はその後一度も来る事は無かったみたいだけどね」
「そうか…」
「怖い?」
「………?」
「城之内君のお墓を見るの…怖い?」
遊戯の言葉に少し考え込む。
オレは…怖いのだろうか…? だが怖いと言っても、まだ何の実感も湧いていないのだ。今の段階では怖いとも悲しいとも…感じる事は出来ない。
「分からん」
「え…?」
「分からんから…見に行こうと思う」
「………。そっか」
遊戯はオレの言葉に満足そうに笑い、再び前を向いて歩き出した。その小さな背を追いかけるようにオレも足を踏み出す。
大きな銀杏の木の横を通り過ぎ、通路の両脇に紫陽花が植えられている小道に入り、最後に何本かの桜の木の間を抜けた時、目の前が一気に開けてオレは目を瞠った。
一面の芝生。柵の向こうには雨に煙る童実野港が見渡せる。遮る物は何も無い絶景。その芝生の中央に、石のプレートが一枚だけ嵌め込まれていた。
まるで誰かに呼ばれているような感覚に、そっと足を踏み出す。しゃくり…と、雨に濡れた芝生が音を起てた。
聞こえる物は何も無い。芝生の上に…そして自分が持つ傘の上に落ちる雨粒の音。通り抜ける風の音。それ以外は何も聞こえない。
そんな静寂の世界の中…城之内の墓石はそこにあった。『K.Jyounouchi』というネームの下に、城之内の誕生日の日付が刻まれている。年号は…去年のものだ。
「寒いね…。あっちの休憩所に自販機があった筈だから、僕何か温かい物買って来るよ。珈琲でいいよね、海馬君」
ただ黙って墓石を見続けるオレに配慮したのか、遊戯が明るくそう言ってその場から離れて行った。
遊戯がいなくなれば、そこは余計に静かな世界になる。雨と風の音以外に何も聞こえない。そう…何も聞こえない。城之内がオレを呼ぶ声も、厭味に応える声も、愛を囁く声も…何も聞こえなかった。
冬の冷たい雨が芝生に…そしてその下にある土に染み込んでいく。この雨に塗れた土の中に、城之内が眠っているというのだろうか?
「巫山戯るな…」
寒さのせいか…それとも悲しみからだろうか。悪態を吐くオレの声は震えていた。白く吐き出された息が空中に霧散し、冬の雨の中に消えていく。
持っていた傘も花束も放り出して、オレはその場に膝を着いた。そして素手で芝生ごと墓石の周りの土を掘り返す。
「巫山戯るな…っ! 巫山戯るな…っ!!」
馬鹿な事をしているという自覚はあった。けれど止める事が出来ない。
土を掘り返して、中にいるであろう城之内の横っ面を一発殴ってやりたかった。思いっきり殴れば、きっとオレを取り巻くこの不可思議な状況も少しは変わる事が出来るんじゃないかなんて…有り得もしない事を考える。
「オレは…知らないんだ…っ!! お前が死んだなんて知らないんだ…っ!! 巫山戯てないで出て来い…っ!! 出て来い…城之内!!」
冷たい雨に全身がびしょ濡れになり、髪の毛の先から滴がポタポタと零れ落ちた。爪の先に詰まる泥が酷く不快だ。それでも掘り続ける。芝生を掻き分け、黒い泥を無心で抉った。
「海馬君!?」
どれくらい時間が経っていたのだろうか。突然背後で遊戯の叫び声が聞こえた。次いでバシャバシャと水溜まりの上を走る音も聞こえてくる。強く肩を掴まれて、そこから引き剥がされた。
「何やってるんだよ…!! 海馬君…!!」
「何…を…?」
遊戯に背後から強く抱き締められて、オレは恐る恐る自分の手を持ち上げて見てみた。その手は土に塗れて黒い泥が爪に詰まっている。それを何となく眺めながら、ボソリと脳裏に浮かんだ言葉をそのまま呟いた。
「城之内を…起こそうと…思って…」
「城之内君を起こすって…っ。海馬君、何を言ってるの!」
「一発殴ってやれば…きっと元通りになるんじゃないかと…」
「海馬君どうしちゃったの…って…え? 凄い熱だよ…海馬君!!」
「遊戯…オレは…どうしても…信じられ…ない…」
「海馬君!? 海馬君、しっかりしてよ!!」
「城之内…」
あぁ…まただ…。また誰かに頭を撫でられている感触がする…。
遊戯では無い。遊戯の両手は今オレの両肩を掴んで揺さぶっているから。では…誰なのだ? この優しい掌は…一体誰のものなのだろう…。
「城…之…内…」
『海馬…早く戻っておいで…』
脳裏に至極懐かしい声が響いて、オレはその場で意識を失った。
目覚めるとそこは自室だった。窓の外はもう既に暗く、寝室の外からモクバと遊戯…それに主治医が話している声が聞こえる。未だ体調が万全では無かったところに冬の冷たい雨に打たれ、風邪を酷く拗らせたのだという話が耳に入ってきた。
喉が燃えるように熱く、頭がガンガンと痛みを訴えている。身体が怠くまるで石になったかのように重い。
「クゥン…」
いつの間に側に寄って来ていたのだろうか。城之内がオレのベッドに上半身を乗り上げ、シーツの上に投げ出されたままだった手を温かな舌でベロリと舐めた。
「城之内…」
掠れた声で名前を呼べば、城之内は素直にオレに擦り寄って来た。そっとその首を抱いて柔らかな金髪に頬ずりする。
分かっている。これは城之内では無い。これは犬だ。ただの犬なんだ。オレの目が城之内だと錯覚しているに過ぎない。
名前を呼べば返事をするように一声鳴くものの、何の言葉も話さない。親愛の意味を込めて唇を舐めては来るが、それはあくまでキスでは無い。抱き寄せれば素直に擦り寄って来るものの、決してオレを抱き寄せる事はしない…出来ない。
「城之内…っ」
あぁ…どうしたらいいのだ…!!
今…こんなにも…お前に会いたい…っ!!
それなのに、もう何もかも遅かったと言うのだろうか? もう二度とやり直せないと言うのだろうか?
お前は一年も前に死んでいて、オレはその間の記憶を失っていて…。
もう二度とあの時間には戻れないとでも…言うのだろうか!?
あの明るい笑顔も、優しい言葉も、熱い体温も、全てもうあの冷たい土の中だと…そう言うのだろうか…っ!?
「城之内…っ!」
寒い…。寒いのだ…城之内。
お前を失った世界はこんなにも寒く感じるものなのか。
今はあの熱い手が懐かしい…。城之内のあの掌に触れられたいと…心から望んでいる。
それなのに…お前はいないのか…っ!
「城之内…っ! 城之内…っ!!」
温かな身体に顔を埋め、必死で愛しい人の名を呼ぶ。
たった一言でいい…。この声に応えてくれたら…っ!!
「城之内ぃ――――――っ!!」
大きな声で叫んだ時だった。
『海馬!!』
耳元で城之内の声が聞こえたような気がした。何だか異様に焦ったような声に、オレは慌てて辺りを見渡す。勿論寝室内に誰かがいる訳も無い。けれど、再び城之内の声がすぐ側から聞こえる。
『海馬!! 海馬…っ!! 目を覚ませ…っ!!』
「え………?」
はっきりと聞こえた声に焦って上体を起こす。その途端、何かに強く身体を押されてオレは体勢を崩した。
熱で自由が効かない身体はそのまま傾いて、ズルリとベッドから落ちていく。
「わん!」
「じょー…っ!?」
ぐらりと傾く視界の中、オレの身体を突き飛ばした城之内が至極嬉しそうな顔をしてそう鳴いたのを見た。その城之内に対して必死に手を伸ばしてもみても、そいつはもう擦り寄っては来ない。
ただ心から安心したような顔をして…オレがベッドから落ちていくのを見守っているだけだった。