*Lost World(完結) - 失われた世界へ… - 1月22日16時48分

 1月22日16時48分

 混乱したオレに焦ったモクバによって呼ばれた主治医に処置をされ、オレは今自分のベッドで静かに横になっている。
 薬を飲み、何とか落ち着いて話が出来るようになったのを期に、オレはモクバから全く現実味の無い話を聞き出す事に成功していた。

 一つ。今現在の時間軸は、自分が考えているより一年も時が進んでいるという事。
 二つ。去年の一月二十五日に城之内が不慮の事故で死んでしまっているという事。
 三つ。どうみても城之内にしか見えないこのゴールデンレトリバーはジョーという名前で、城之内が亡くなって暫くしてオレが自分で連れて来たという事。

 どれもこれもが全く身に覚えが無く、ましてや信じる事など出来やしない非ぃ科学的な現象だ。
 それでも信じざるを得なかったのは、それを伝えたモクバの目が決して嘘を吐いておらず、更にオレが知っているモクバより成長していた為だった。最初に感じた違和感は、この成長の為だったと納得する。
 一年の時間が過ぎ去っていた事に関しては、何とか納得する事が出来た。しかしそれ以外の事象については、何一つ理解する事が出来ない。ましてやあの城之内が死んだ等と…どうして信じる事が出来ようか。

「城之…内…」

 昨晩…。そう昨晩だ。オレにとってはまだ一日経っていない。
 つまらない意地を張って城之内を怒らせて、彼に冷たい目をさせてしまった。城之内は呆れたような顔をして、そしてオレに荒々しいキスを一つ残して消えてしまった。
 確かにもう終わりだと思った。別れる事になるのだろうと確信していた。
 だけれども…! あの姿が本当に最後の見納めになるだなんて、一体誰が考えるだろう!!

「城之内…っ!!」

 気怠い身体を敷布の中で丸めて、オレは城之内の名を呼んだ。その名に応える声は無く、代わりに「クゥン…」という犬の鳴き声が耳に入ってくる。
 先程までベッド下の絨毯の上に大人しく伏していた城之内が、両手をベッドに引っ掛けてオレの顔を覗き込んでいた。心配そうな表情やその琥珀色の瞳はまさしく城之内そのもので、その顔を見てじわりと眼の奥が熱くなるのを感じてしまう。耐えられなかった涙が頬を伝っていったのを、温かな舌でベロリと舐め取られた。

「じょ…の…うち…」

 金色の頭に手を置くと、思ったよりも柔らかい毛の質感が伝わってくる。その感触を確かめて、オレは諦めた様に嘆息した。

 あぁ…やはり違うな…。本物の城之内の髪質は、もっと荒くゴワゴワとしていた筈だ。

 飼い犬が亡き恋人に見える現象を、医者はショック症状だと言っていた。
 モクバによると、オレは昨日から高熱を出しずっと寝込んでいたのだそうだ。ちなみに昨晩の体温は三十八度八分。オレが覚えている昨晩の体温は確か三十八度二分だった筈だから、やはりオレの言う『昨日』とモクバの言う『昨日』は違う『昨日』なのだという事だろう。
 オレの記憶が一年飛んでいる事に関しても、医者は高熱によるショック症状だと言い切った。高熱で朦朧とし、辛い想いをして過ごした一年を自主的に忘れてしまおうと脳が勝手に判断したせいだと告げる。「ましてやこの時期ですから…」という言葉からも、この主治医も城之内の事は知っているのだという事を理解した。

「辛かった…一年…」

 オレは全く身に覚えのない言葉を、ポツリと呟いてみる。
 つまらない事で言い争いをし、素直に謝る事も出来ぬまま恋人は事故死し、一時は食べる事も眠る事も出来ずに痩せ細り、やがて恋人にそっくりな犬を連れて来て共に過ごす日々。
 確かに聞いているだけで『辛い一年』だ。
 ただその記憶が無いせいか、その言葉はオレにとっては全く現実味の無いものだった。

「どうやってそれを…信じれば良いというのだ…」

 クンクン鳴きながらオレに擦り寄る城之内の頭をゆっくりと撫でながらそう口に出すのと同時に、私室の扉が開かれた音がする。聞こえる足音は二つ。どちらも子供の様な足音だった。
 多分片方はモクバだろう。ではもう片方は…と考えてた時、寝室の扉がノックされた。

「兄サマ? 起きてる?」

 少し遠慮をしたかのようなモクバの声に、オレは「あぁ」と返事をした。そしてベッド上で上体を起こし、少し乱れたパジャマを整える。もそもそと動くオレを、城之内はただ黙って見詰めていた。

「遊戯が来てるんだよ。学校のプリント持って来てくれたんだって」
「遊戯が…?」
「会える?」
「構わない。入ってくると良い」

 オレの返事と共に寝室の扉が開かれ、そこから遊戯がひょっこりと顔を出した。

「海馬君、具合どう?」

 一年経っているだろうに全く変わり映えのしない姿に苦笑しつつ、オレは手招きをして彼を呼び寄せた。
 モクバの成長が著しかったせいだろうか。何の変わりも無い遊戯にほんの少しだけホッとしたのだ。

「突然ゴメンね。でも今日中に渡しておきたいプリントだったから…」
「構わん。貴様に風邪が移ろうがどうなろうが、オレにとっては関係無いからな」
「酷いなぁ…もう」

 丸い頬を更に丸めて、遊戯はそう言ってむくれていた。けれどその大きな目は決して怒ってはいない。それどころかオレの事を心配しているのが、よく見て取れる。
 オレ達が和やかに話しているのに安心したのだろう。モクバはベッド脇に椅子をしつらえると、そのまま部屋を出て行った。それを見送った遊戯は椅子に座りつつ、自分の学生鞄から一枚のプリントを取り出す。差し出されたそれを何となく受け取り、そして深く溜息を吐いた。
 そこには二年ではなく三年という文字が記されていた。
 オレが知っている自分の学年は二年だ。この事でまた自分の中の一年が飛んでいる事を思い知らされて、せっかく落ち着いて来た頭痛がぶり返しそうに感じる。

「ねぇ…海馬君。一体どこまで時間が巻き戻っちゃったの?」

 何も言う事が出来ず、ただ受け取ったプリントを睨み付けるように眺めていたオレに、遊戯がそう問い掛けてきた。どうやらオレの症状は、もう既にモクバから聞いているらしい。
 話を聞いているなら面倒臭くも無いと、オレはプリントに向けていた視線を上げてベッド脇の遊戯を見詰めた。

「一月二十二日だ」
「え…?」
「今日は一月二十二日だな」
「うん、そうだけど…」
「オレにとっても今日は一月二十二日だ。ただし、一年前の一月二十二日だけどな」
「一年前の…?」

 遊戯が驚きの声をあげる。そして同時に沈痛な表情になったのを見て、オレはその顔を見ていられず静かに目を伏せた。
 何故遊戯がそんな顔をしたのかなんて…よく分かる。
 遊戯は…城之内の親友だった。そしてオレと城之内の関係も知っていた。という事は、ここ一年間のオレの状態も知っているという事だろう。そしてこの一月二十二日という日付がどんな意味を持つのかも…多分良く分かっているのだ。

「オレの時間の中では…城之内はまだ生きているんだ…」

 そう呟くと案の定、遊戯は泣きそうな顔をして俯いた。

「でも…海馬君…。城之内君は…死んでしまったんだ…」
「………。そんな事は…知らない」
「でも死んじゃったんだよ! 二十五日の早朝に!! 居眠り運転のトラックに轢かれて…っ!!」
「っ………!!」
「城之内君…ずっと楽しみにしてたんだ。二十五日は海馬君と過ごすから、その日は新聞配達の仕事も休むんだって…。海馬君と一緒にゆっくりするんだって、嬉しそうに話してた。でも君達が喧嘩しちゃって…それで予定も全部パーになっちゃって…。それで城之内君は渋々自分の誕生日だっていうのに、新聞配達の仕事に行ったんだよ」

 遊戯の話す言葉が、何故か外国語のように聞こえた。
 まるでどこか遠くの…全く知らない人間の話のように聞こえる。

「配達所の近くだったんだ。もう全部配り終わって…本当に後は帰るだけの…。最後の大通りの横断歩道を渡ろうとして…でも向こうから運送会社のトラックが赤信号で突っ込んできて…」

 遊戯は話ながらボロボロと泣き出した。膝の上にある手をギュッと握りしめて、ブルブルと震えている。

「トラックの運転手さんは居眠りしてた。だから横断歩道を渡ろうとしている城之内君に気が付かなかった。気が付いた時には…もう…っ」

 耳障りなクラクション。まるで金切り声のようなトラックと自転車両方のブレーキ音。
 ひしゃげた自転車。蜘蛛の巣状に割れたトラックのフロントガラス。道路に散らばったライトの破片。歪んだバンパー。

「っ…うっ…!」

 見えない光景が目に見えるようだった。まるで自分がそこにいるかのように…。

「城之内君は…死んだんだよ…海馬君」

 目を真っ赤に腫らして遊戯がオレにそう言い放つ。
 遊戯の深い悲しみがオレにも伝わってくる。けれどオレはどうしても、それを現実の物として受け止められなかった。そんな悲惨な話を安易に信じる事なんて…出来はしない。
 涙も流さずただ唇を震わせる事しか出来ないオレに、遊戯は静かに口を開いた。

「海馬君は…最初は冷静そうに見えたよ。自分では何も出来ない城之内君のお父さんの代わりに、通夜とかお葬式の手配をしたりとか…。あとお墓を作ってあげたのも海馬君だった」
「墓…だと…? このオレが…城之内の墓を…?」
「そう。最初は郊外の安い市営墓地にって話だったんだけど、海馬君がどうしてもそれを嫌だって言い張って…。ほら…この高級住宅街のある丘の反対側に、静かな墓地があるの…知ってるでしょ? 結構お金持ちの人達ばかり利用してる処」
「あぁ…。あの童実野港が見下ろせる墓地か」
「うん、そう。あそこにさ、海馬君が自分で城之内君のお墓を作ってあげたんだ。和風のお墓じゃなくて、芝生の上に一枚のプレートを埋め込んだ外国風の…」

 遊戯が事細かに城之内の墓について説明してくれるが、オレにとってはサッパリな話だった。何しろそんな墓を作った記憶も無いのだから。
 オレが全く何の反応も出来ないでいる事に、遊戯も気付いてくれたらしい。滲む涙を手の甲で拭いながら、遊戯はニッコリと微笑んだ。

「覚えが無いのも仕方が無いかな…。だって海馬君は城之内君のお墓を作ってあげたっていうのに、自分では決してお参りに行こうとしなかったんだもん。もし皆に内緒でお参りに行ってるんじゃなかったら、僕やモクバ君が知る限り、海馬君はまだ一度も城之内君のお墓に行って無い筈だ」

 涙を完全に止め、遊戯はスッと視線を上げた。そしてシーツの上に投げ出されたままだったオレの手を掴んで、こう言い放つ。

「明日…具合が良くなったら…、城之内君のお墓参りに行ってみる…? 命日には少し早いけど、誰も居ない方がいいでしょ? 僕も一緒に行くから…」

 城之内の墓。全く覚えの無い墓。その墓を見れば少しは現実味も増すのだろうか…。この常に付き纏う違和感も消えるのだろうか…。
 城之内が死んだという事実を未だに納得出来ないながらも、オレはその申し出にコクリと頷く。それを見た遊戯がニコリと笑って「じゃあ、昼過ぎに迎えに来るから」と言ったのを聞きつつ、心の中ではもう別の事を考えていた。

 墓を見れば納得出来るのだろうか…?
 あれからもう一年の年月が過ぎているという事を。
 城之内が既に死んでしまっているという事を。
 本当に…納得出来るのだろうか…?



 その日の夜の時点では、未だ体調は悪かった。
 喉は腫れて痛く、身体は火照ったように熱く気怠い。苦しげに呼吸をしながらそれでも何とか眠りにつこうとすると、意識が落ちる寸前にふと…誰かに頭を撫でられたような気がした。
 大きくて熱い掌に、優しく優しく何度も頭を撫でられる。
 至極懐かしく感じるその感触に、オレは知らず涙を零していた。

「………ょ…う…ち…」

 頭に浮かんだその人物の名前を呼んだところで、意識が眠りに引き摺られた。
 あとはもう何も感じない。あの優しい掌の感触も、いつの間にかどこかに行ってしまっていた…。