1月22日6時17分
何か小さな子供の様な手に揺り動かされて、オレは眠りの淵からゆっくりと意識を浮上させた。
前日は結局日付が変わる直前まで残業をし、くたくたに疲れた身体を引き摺るようにして邸に戻って来た。
何もこんなに働く事は無かったのだ。何故ならもう、無理して働いてまで時間を作る必要が無くなってしまった訳だから…。
あれだけの言い争いをすれば如何に脳天気な城之内とて、もう二度とオレと関わろうなんて思わないだろう。今頃はきっと、オレに告白した事自体を後悔しているに違いない。そう…あれで終わりだ。オレ達はもう終わってしまったのだ。
そう考えて…胸がズキリと痛むのに気付いた。
別れるのが自然だと思っていた。なのに何故こんなにも苦しいのだろう…。
息が苦しい。喉が熱くて痛い。頭もボーッとして何も考えたくない。
この苦しさは体調の悪さ故のものだけでは無いのだろう。喉の痛みも腫れているだけのせいでは無い。頭がボーッとするのだって熱が上がっているせいだけでは無い筈だ。
気を抜くと勝手に零れてくる涙を押し留めて、オレは必死に嗚咽を飲み込んでいた。だから息が苦しかった。嗚咽を飲む喉が痛かった。頭が熱くなってボーッとした。
「城之内…っ」
オレに対して怒っていた城之内が最後にしてきたあのキス。あれがきっと城之内がしたいと言っていた、恋人としてのキスなのだろう。
誕生日を待たずして無理矢理押し付けられた恋人のキス。それが持つ意味を、オレはうっすらと理解していた。
きっとあれは…恋人としての最後のキスだったのだ。城之内はオレを見限った。別れる事を決意して、最後にあのキスを残していったのだ。
「ふっ…ぅ…っ」
あのキスを思い出して震える唇に指先を当て、オレはまた泣きたくなってしまう。けれど涙と嗚咽を飲み込んで、何とか泣くのを我慢する。泣けないと思った。オレには泣く権利が無いと…そう思った。
悲しみを忘れようとするように無我夢中で仕事をして真夜中に邸に戻ると、心配そうな顔をしたモクバに出迎えられた。オレを見上げたモクバの表情はみるみる青冷めていき、少し焦ったような声でこう告げてくる。
「兄サマ…。もしかして具合悪いんじゃないの?」
心底心配そうにしているモクバにゆるやかに首を振って、オレは笑みを浮かべて答えを返した。
「大丈夫だ。お前こそこんな時間まで起きているなんて…。早く寝なさい」
「オレは別に平気だぜぃ。兄サマに心配されるまでもなく、ちゃんと十分に休んでいるから。でも兄サマのその顔色は悪過ぎるよ。熱でもあるんじゃない?」
そう言ってモクバはオレの手を握ってきて、次の瞬間に「何これ! 熱いよ兄サマ!」と叫んだ。
慌てたモクバによって早々にリビングに連れて行かれ、メイドが持って来た薬箱から耳で計れるタイプの体温計を取り出してそれで熱を測られる。そして、そこに浮き出た『38.2』の数字に二人揃ってギョッとした。「やっぱり…」とモクバが溜息と共に吐き出して、少し呆れたような目をしてオレを見詰める。
「朝から顔色が悪いと思ってたんだよね。今日はもう早く寝なよ、兄サマ」
「こ…これくらい大丈夫だ」
「だーめ。明日は学校も会社もお休みだね。大体ここで無理しちゃったら、二十五日に城之内の誕生日を祝えなくなっちゃうでしょ?」
「っ………!」
何気ないモクバの言葉に思わず反応してしまった。オレが一瞬押し黙ったのをモクバは怪訝そうに見詰めていたが、どうやらそれを具合が悪い為の反応だと勘違いしてくれたらしい。手に持った体温計を薬箱にしまいながら、モクバはオレに向かってニッコリと微笑みかけてくれる。
「とにかく今日はもうゆっくり休んで…。体調が悪かったら、仕事もプライベートも上手くいかないんだぜぃ、兄サマ」
モクバはまだ知らないのだ。オレと城之内が既に別れてしまっている事を。
だがそれを事細かに説明するのも今の自分にはしんどくて、結局オレは黙って頷くとリビングを後にし、自室へと足を向けたのだった。
その後は熱も高いという事から仕方無くその日は顔を洗っただけでベッドに突っ伏し、夢も見ない程ぐっすりと眠ってしまった。だがその心地良い眠りを、今誰かが無理矢理破ろうとしている。
ゆさゆさと揺り動かされる中、浮上する意識に任せて喉をコクリと鳴らしてみる。その途端走った激痛に、自分が未だに体調を崩している事を知った。身体はかなり熱っぽく、関節も痛むような気がする。
昨日より酷くなっている…。
頭の片隅でそう思いながらゴロリと寝返りを打った。
オレを起こそうとしているのが一体誰かは知らないが、今は具合が悪いんだ。もう少し静かに寝かせてくれと願う。
「………?」
ただそう願った直後、突如違和感に気が付いた。
ここは間違い無くオレの部屋だ。では誰がオレを起こそうとしているのだ?
使用人の類で無い事だけは確かだ。この海馬家の使用人は良く仕付けられていて、主人に対してそんな不作法な真似はしない。となるとモクバか…と思い至り、だが弟は決してこんな真似をしない事も思い出した。
何だ…? では一体誰なんだ…?
全く覚えの無い存在が気になり出した時、背後から聞こえた「ワン!」という鳴き声に漸く安心する。「何だ犬か…」とボンヤリとした意識の中で思い、犬ならば仕方が無いと再び眠りにつこうとして…急激に意識が目覚めた。
い、犬!?
具合が悪い為身体が休息を求めているのか、瞼はとても重たい。だが不可思議な現象をこの目でしっかりと確かめなければならないと、オレは眠い目を無理矢理開いて振り返る。そしてそこにいた存在に目を瞠った。
「じ…城之内…っ!?」
そこにいたのは城之内だった。城之内が満面の笑顔を浮かべ、ハッハッと嬉しそうに息を切らしながらオレの身体に手を掛けている。
何故こんな時間に城之内がオレの部屋にいるんだと一瞬頭が混乱するが、昨日のいざこざの腹いせにからかいに来たのかと思い至った。巫山戯た真似を…と一瞬腹を立てかけたのだが…。ふと、城之内の頭の上に見慣れない物がくっ付いている事に気付いて首を傾げてしまう。
何か茶色い毛の付いた大きなものが二つほど、城之内の頭の両脇からダランと垂れていたのだ…。更に視線を下にずらすと、同じような茶色い色をした毛の固まりが城之内の尻の辺りでブンブンと左右に振られている。
こ…これは…もしかして…いや、もしかしなくても…。
耳と尻尾なのか!?
い、いや待て、ちょっと待て。
耳と尻尾なのは分かったが、どうしてそれが城之内にくっ付いているのかが問題だ。これはあれか? 我が社の新製品の玩具か何かなのだろうか?
とにかく朝から巫山戯た態度を見せる城之内に苛ついて「一体何のつもりだ…」と凄んでみる。けれど城之内は全く怯む事無く、それどころかオレと目が合うと心底嬉しそうな顔をしながら「わん!」と一声鳴き、ベッドの上に乗り上げてオレに飛びかかってきた。
「なっ…!? 城之内!!」
半身を起き上がらせていたのだが、飛びかかった城之内によってオレは再びベッドに押し倒されてしまった。何をするつもりだと叫ぼうと思ったその時、押し倒して来た城之内の意外な行動に面食らって思考が止まってしまう。
何と城之内は、オレの顎や唇をベロベロと舐め回したのだ。
まるで本物の犬のような行動にオレは完全に混乱して、それでも何とか目の前の身体を引き離そうと奴の頭に手を掛けた。そして垂れ下がった茶色い耳に触れた時、驚いて再び動きを止めてしまう。
その耳は…温かかった。血が通っているのが感じられる。試しにスリスリと指先で撫でてやると、城之内(と思わしきもの)はクンクンと嬉しそうに鼻を鳴らしながらオレの掌に擦り寄って来た。
「まさか…本物…?」
自分が触っているものが信じられなくて、試しに千切れんばかりに左右に振られている尻尾を触ってみても、それもやはり紛れも無い本物だった。尾に触れられている城之内は一瞬キョトンとした顔をして自分の背後を確認し、次に視線を戻して首を傾げてオレを見る。だが次の瞬間、また嬉しそうな顔をしてクンクンと鳴きながらオレの身体に擦り寄って来た。
「城…之…内………?」
どう見ても本物の犬にしか見えない行動に戸惑って、恐る恐るその名を呼んでみる。だが城之内は人間らしい反応を返す事も無く「わん!」と鳴くと、また尻尾を激しく左右に振り出した。
一体これがどういう事なのか皆目見当も付かず、暫くベッド上で城之内と見詰め合っていると、ふいに自室のドアが開く音がするのに気付いた。そしてパタパタという軽い足音が近付いて来て寝室のドアが開かれる。
「あー! ジョー!! お前また兄サマのベッドに上がり込んで…。シーツが毛だらけになるだろ!!」
現れたのはモクバだった。
最愛の我が弟。だが何故か、少しだけ違和感を感じた。その違和感の正体が分からなくて余計に戸惑ってしまう。
「モクバ…?」
モクバの大声に驚いたのか、城之内はひらりとベッドから飛び降りた。そしてベッド下の毛足の長い絨毯の上でいじけた様に伏せて、上目遣いでモクバの事を見ている。
そんな城之内とモクバを交互に見ながら、オレは何とか痛む喉から掠れた声で弟の名前を呼んだ。するとそれを聞いたモクバは少し心配そうな顔をしてオレの側までやって来る。
「わ、凄い声。兄サマまだ具合悪いんだね。今日もゆっくり休んでた方がいいよ」
「………」
「そう言えば去年のこの時期もこんな風に風邪をひいていたね。やっぱりあの事が気に掛かっていたからなのかなぁ…」
モクバが放つ言葉にオレは首を捻った。
去年? 去年は確か病気らしい病気もせずに、日々仕事と勉学に打ち込んでいた筈なのだが…。モクバは一体何を言っているのだろう。意味が分からない。
あぁ、そうだ…。意味が分からないと言えば、この城之内の態度も意味が分からない。
「モクバ…」
オレは意を決してモクバに尋ねてみる事にした。
「これは…何に見える?」
絨毯の上に伏している城之内を指差してそう尋ねると、モクバは心底不思議そうな顔をしてオレの事を見詰めて来る。そして如何にも「何言ってるの?」と言った感じで口を開いた。
「何って…ゴールデンレトリバーでしょ? 兄サマが連れてきた」
「オレが…? 連れてきた…?」
「そうだよ。去年の冬に城之内が亡くなって、それから暫くして兄サマが自分で連れて来たんじゃんか。城之内にそっくりな犬を見付けたって言ってさ」
モクバはさも当然のように言い放ったが、オレはモクバのその言葉の中にとんでも無い単語が含まれている事に気付いてしまう。
去年の…冬…? 城之内が…亡くなって…?
「モ…モクバ…?」
弟の名を呼んだ声は、自分でもみっともないと思うくらいに震えている。だがオレはどうしても、モクバの言葉を素直に受け止める事が出来なかった。
今モクバは何を言った? 一体城之内がどうなったと言ったんだ?
「去年とは…いつの事だ…? 去年の今頃は、オレは城之内とは知り合っていなかった筈だが…」
「何を言ってるの兄サマ! いくら城之内が死んだ事が悲しかったからって、アイツの存在を全否定する事無いじゃないか! 恋人だったんでしょう?」
「恋人になったのは去年の秋だ! オレの誕生日の直前の…!!」
「それは一昨年の話だよ! 年が明けて城之内の誕生日間近に兄サマと城之内は喧嘩しちゃって…、仲直りする前に城之内が不慮の事故で死んじゃって…! ちゃんと素直に謝れば良かったって、兄サマ泣いてたじゃんか…!!」
「なっ…? モク…バ…? な…何を言って…」
「それからは本当に気落ちしちゃって、眠りもしなければ食事もしないでどんどん痩せていく兄サマを見て…オレがどれだけ心配したか…! でも暫くして兄サマがジョーを連れて来て、それからは普通に生活出来るようになって、漸く安心してたって言うのに…。どうして今更そんな事言うんだよ!」
「………。知ら…ない」
「え………?」
「オレは…そんな事は…知らないぞ…」
「兄サマ…?」
「オレは…知らない…! そんな事は知らない…!!」
「兄サマどうしたの!? 落ち着いて…!!」
「モクバ…!! オレは知らないんだ…!! 城之内が死んだなんて…そんな事知らないんだ…!! 付き合ったのは去年の秋で…喧嘩したのはつい昨日の事で…っ!! オレは…オレは…!!」
「兄サマしっかりして!!」
はっきり言って気が狂いそうだった。
モクバの言う事の何一つ理解する事が出来ない。一体自分の身に何が起きているのかも理解出来ない。ただ腫れた喉の痛みと身体のだるさと…そして絨毯の上からじっと心配そうにオレを見ている城之内の視線だけは強く感じる事が出来る。
強い強い琥珀色の瞳。どうみても城之内にしか見えないその『犬』は、混乱するオレをただ見守っていた…。