1月21日18時33分
その日は朝から喉が痛かった。頭が内側からガンガンと痛んで、背筋がゾクゾクして寒気を感じていた。やっかいな風邪をひいたと思ったが、それでもやり残した作業があったので無理をして会社に行った。
オレは海馬コーポレーションの社長だ。風邪だ何だと甘えた事を言って業務をサボる訳にはいかない。ただでさえ正月休みで滞った業務が山程残っているのだ。社長のオレが安易に会社を休む事など許される事では無い。
そう思って気怠い身体を叱咤して業務に当っているのだが、熱が上がって来たのか、頭がボーッとして一向に作業効率は上がらなかった。心なしかPCのモニタに映るデータも霞んで見える。だがここで全ての作業を中途半端にして帰るのだけは嫌だったので、秘書が煎れてくれた熱い珈琲を飲んで最後まで頑張る事にした。
ソーサーの上に置かれたカップに手を掛けて、芳ばしい香りを放つ珈琲を一口飲み込む。途端に腫れた喉がズキリと痛んで、オレは顔をしかめた。
そう言えばそうだった。朝から喉が腫れて唾液を飲み込むのも辛かったのだった。
仕事をするのに夢中ですっかり忘れていたが、喉の痛みは朝よりずっと酷くなっている。一応額に手を置いてみるが、自分の掌の温度も格段に上がっている為にどの程度の熱が出ているのか全く分からない。ただ体調が極限に悪いというのだけは理解出来た。
窓の外を見ると、日はとっくに沈んで童実野町は夜の帳に包まれている。今朝の天気予報で今夜は冷え込むとは言っていたが、先程から背筋に走る寒気はそのせいだけでは無いだろう。大体空調設備が完璧なこの社長室で寒気を感じる事からしておかしい。
「はぁー………」
知らず溜息を吐いた。革張りの椅子に深く腰掛けて、背を預け天井を仰ぐ。
最悪の体調、進まぬ仕事、時間ばかりが過ぎていく現状。
全てが自分の思うように進まぬ様にオレは苛々していた。だからその直後、無遠慮な足音を巻き散らかして城之内がここにやって来たのは、まさに運が悪かったとしか言いようがない。
「よぉ、海馬! 相変わらず忙しそうだなー。ご苦労さん!」
相変わらず忙しそう等と思うのならば、邪魔しに来ないで少しは遠慮して大人しくしていればどうだと言ってやりたかったが、腫れた喉が痛んで大声が出せない。せめてもの抗議に力一杯睨んでやっても、城之内はどこ吹く風とばかりに飄々としている。それどころかズカズカと近付いて来ると、机に両手を突いて乗り出すようにしてオレの顔を見詰めて来た。そしてニッカリと笑うとこんな台詞を吐く。
「それでさー。二十五日どうする? 祝ってくれんだろ? オレの誕生日」
城之内のその言葉を聞いて、オレは何故己がこんなに必死になって仕事をしているのかという、根本的な理由を思い出した。
オレが城之内と所謂恋人として付き合うようになったのは、去年の十月の頭からだった。
城之内から最初に告白されたのは、確か二学期が始まってすぐの事だったと思う。
それまで険悪な仲だった城之内からの突然の愛の告白。初めはからかわれているものだとばっかり思っていたが、どうやら城之内は至極真剣だったらしい。同じ男同士で、しかも目を合わせれば口論しかして来なかったような相手を、本気で好きだと何度も繰り返し伝えて来た。
その告白に根負けしたのが十月の頭。そしてオレ達は恋人として付き合う事になった。
恋人同士として初めて迎えたイベントは、そのすぐ後に来たオレの誕生日だった。城之内を海馬邸に招いて一緒に食事をし、そして初めてキスというものをした。
ただ唇を押し付け合うだけの簡単なキスを一度だけ。それでもオレにとってそれは、余りにも衝撃的なものだった。
城之内の荒れてかさついた唇は、決して心地良い感触とは言えない。それなのに、唇に直に伝わってくるその体温の熱さに驚いたのだ。じわりと広がるその熱は、唇からオレの脳内に伝わって全ての思考を麻痺させる。
「本当はもっと恋人らしいキスってのがあるんだけど、それはまた今度な。あんまり急いでもアレだから…」
キスが終わって暫くボーッとしていたオレの頭をポンポンと撫で、城之内は真っ赤な顔でそう呟いた。
その日は結局、夜遅くに城之内は帰っていった。その後、クリスマスや正月も同じように過ごしたけれど、未だ恋人らしいキスというものをした事が無い。オレとしては他人と唇を押し付け合っているだけで、恋人としてのキスは果たしていると思っているのだが、城之内はどうやらそうでは無いようだった。
そして正月明け、城之内は唐突にオレに向かってこう言ったのだった。
「オレさ、そろそろお前と恋人らしいキスがしたいんだ。だから今月の二十五日、予定空けといてくれる? オレの誕生日なんだよ」
自分の誕生日プレゼントに、オレと恋人らしいキスがしたい。それが城之内の望みだった。
丁度その時期に自分のスケジュールが立て込んでいるのは知っていた。だが、恋人の誕生日を祝うという事がどれ程大事なのかという事も、今のオレには分かっている。だから二つ返事で了承したのだ。少し無理をすれば二十五日を空ける事は不可能では無いだろうと…そう思って。
こうしてオレはここ何日か、かなり無茶なスケジュールを必死でこなしていたのだ。だが身体はとっくに限界を迎えていたらしく、案の定、すっかり風邪をひいてしまった。
喉が腫れて燃えるように痛い。頭がガンガンして、背筋に寒気が走る。それなのに邸でゆっくり休む事も出来ず、こうして出社してディスクに向かっている。
こんなに辛い思いをして必死に仕事をしているのは一体誰の為だ? 誰のせいで身体を壊してまで忙しく仕事をしていると思っているんだ!
そう考えたら一気に腹が立ってきた。
「二十五日…だと…?」
痛む喉から掠れた声を振り絞って言い放つ。
「貴様…この状況を見て分からんのか! 何が誕生日だ!! 下らない事を言ってオレの仕事の邪魔をするな!!」
「な、何だよ…。そんなに怒るなよな。ちょっと聞いてみただけじゃんか」
「ちょっとだと…? そのちょっとの時間がオレにとってどれだけ貴重か分かっているのか!!」
「そ…それは分かってるよ。あ、いや、あんまりよく分かってないけど。でもほら、ここ最近ずーっと忙しそうだったからさ…。てっきりオレとの約束を忘れちゃってるんじゃないかって…ちょっと心配で…」
城之内のその言葉に、またカチンとした。
約束を忘れているだと…? 忘れて無いからこんなに忙しい思いをしているのではないか!!
頭は未だにガンガンと痛みを訴えていて、余計にオレを苛立たせる。何故オレがこんな思いをしなくてはならないのだ。どうしてこんな事に振り回されて、身体を休める事も出来ずに必死にならなければならないのか。
今オレは、全ての事柄を途轍もなく理不尽だと感じていた。
怒りからなのかそれとも発熱からなのか、上手く判断出来ないがオレの身体が細かく痙攣しだした。自らの身体に両手を回し、それを何とか押し留める。こうしている間にも、体調がどんどん悪くなっていくのが嫌でも分かってしまった。
だが、鈍い城之内はそれに気付かないらしい。相変わらずキョトンとした顔をし、どこか心配そうな目付きでオレを見ていた。だがその心配はオレの体調にかかるものではなく、約束が反故にされないかどうかという事に関してかかるものだという事が伝わって来る。
「なぁ…海馬。二十五日…空けて貰えるんだよな?」
案の定、人の気も知らないでそんな事を言い放つ城之内に、ついにオレは自分の中の何かがプッツリと切れたのを認識した。
「ふ…巫山戯るな…貴様!! 二言目にはまたそれか!! この現状を見てまだそんな事を言えるなど、脳天気にも程があるぞ!! いい加減にしろ!!」
「だ…だからそんなに怒るなって! 心配になっただけなんだよ。オレだってちゃんとお前の事を考えているんだから。もし無理そうなら中止にする事だって考えて…」
「オレの事を考えているだと…? ふん…お優しい事だ。だがオレの本質は全く見えていなかったようだな。貴様はオレの恋人失格だ!!」
「なっ…!? ちょ、ちょっと待って! 何でそんな事になるんだよ!!」
「オレが何故この時期にこんなに忙しく働いているのか、その空っぽな頭で少しは考えてみろ!! 貴様がそれに気付くまでは、オレは貴様には会わない! 二十五日までに答えが出なかったら…それまでだ!!」
「それまでって…。え? どういう事? ま…まさか…。二十五日までに答えを出せなかったら、別れるって事なのか!?」
「貴様がそう受け取ったのならそれでいい」
「お前…!! それでいいって、オレは全然良く無いよ!! オレはお前が好きなんだ!! 別れるなんて絶対に嫌だからな!!」
「例え好きだろうと何だろうと、その相手を理解出来ないような恋人ならオレはいらない。邪魔なだけだ。消え失せろ」
大声で叫んだ為に、喉の痛みが一気に酷くなった。ズキズキと痛む喉に手を当てて、目の前に立つ城之内を冷ややかに見詰める。
城之内は信じられないような表情をしていた。暫くは琥珀の瞳をユラユラと揺らして、震える唇で何かを言おうとしている。けれどオレが最後に「消え失せろ」と言った瞬間に、その瞳の色がスッと無くなった。焦っていた表情も急激に青冷めて無表情に近い顔になる。
そんな変化など今まで見た事が無くて、思わず城之内の事を凝視してしまった。
何故か「不味い…」と思った。自分が言ってはいけない一言を言ってしまった事に気付く。
「海馬…」
表情を無くした城之内から発せられたオレの名は、酷く冷たい響きを持ってオレの耳に届いた。
その声の低さで理解した。
オレは城之内を本気で怒らせてしまったのだという事に…。
「海馬。いくら腹が立ってたとは言え、相手に消えろって言う事はないだろう…。それは絶対言ってはいけない言葉だ」
どこまでも低く感情を極力抑えた声で、城之内はオレにそう言った。城之内の言う事は理解出来る。確かにこれは失言だった。
でもだからと言って、オレが今まで感じていた怒りを消化出来たかというと、そういう事でも無い。そうだ…オレはまだ怒っているのだ。オレの事を好きだという癖に、全くオレ自身を理解しようとしない城之内に怒っていた。
「それで? 貴様はオレにどうして欲しいんだ?」
敢えて感情を載せないように、こちらも冷たくそう言い放つ。
「謝れよ」
「何をだ」
「さっきの言葉をだ」
「断わる」
「なっ…! お前…っ」
「貴様だって散々オレを怒らすような事を言いまくっていたではないか。謝るならそちらが先だ」
「お前がさっきからオレに対して苛ついていたのは分かってたけどな。でもオレは、自分が何を言ってお前をそんなに怒らせたのか、分かっていないんだ」
「ふん…やはりな。だから貴様は凡骨だと言うのだ。貴様がそれに気付くまでは、オレも謝る気はない」
「おい、待てよ! お前の失言は明確だろ!? ちゃんと謝れってば!!」
「嫌だと言っている。大体謝ったところでどうするのだ。こんな状態で四日後の貴様の誕生日を祝えというのか? 無理だろう」
「海…馬…?」
「いっその事、ここで別れてしまった方がいいのでは無いか? そうすればオレも貴様も楽になる」
「何言ってるんだよ…!」
「どうせ初めから合わなかったのだ。こうなる事は必然だっただろう。むしろ自然か? オレ達が付き合っている事の方が不自然だったのだからな」
言いたくない言葉が次々とオレの口から漏れ出ていく。止めようとしても止まらない。
城之内の誕生日を祝ってあげたいと思っていたのは本当だった。初めは戸惑っていた恋人としての付き合いも、今はもうすっかり落ち着いて、むしろその関係を至極気に入っていたのも本当だった。
なのにどうして、こんな事になってしまったのだろう…。
目の前に立っている城之内が鋭い視線でこちらを睨み付けている事は感じていた。けれど、その視線を真っ向から受ける勇気は無い。俯いて、まるでもう興味が無いとばかりに視線を反らす。
「………」
「………」
身体が石になってしまったかのように硬くなっていた。少しでも動いたら負けのような気がする。口内に溜る唾液を飲み込む事さえ出来ない。俯いた先の自分の爪先だけを見詰めて、ただ時が経つのをじっと耐えていた。
ふと、空気が動いたのを感じた。
オレのディスクの前に突っ立っていた城之内が動いて、机を回り込んでオレの脇に立つ。
「海馬」
何となく呼ばれた名前に反応して顔を上げると、両頬をがっしりと熱い掌で掴まれてしまった。そして無理矢理顔を持ち上げられると、荒れた唇を押し付けられる。
「………っ!?」
驚きの余り何かを言おうとして唇を少し開けたその時、何か温かい物がヌルリと口内に入り込んで来たのを感じた。それはヌメヌメと無遠慮にオレの口内で暴れまくり、逃げる舌を無理矢理絡め取られ強く吸われてしまう。
「んっ…! んぅっ…!!」
どちらのものとも分からない唾液が口内に溢れ、飲みきれなかったそれが口の端から零れ落ちた。それがとても気持ちが悪くて早く指先で拭いたいのに、オレの手は城之内の胸に縋り付き、安いポロシャツをギュウッと握り締める事しか出来ないでいる。上手く息が出来なくて苦しくて、涙目になって必死に助けを訴えても城之内は止めてくれない。それどころか強く首筋を掴まれて顔を動かす事すら出来なかった。
やがてどれくらい時間が過ぎたのだろう。オレの唇を舌で舐め取りながら城之内が離れていく気配に、オレは漸く城之内の胸元から手を離す事が出来た。そして自由になった手を振り上げて、反射的に目の前にあった顔を思いっきり打ち据えた。
パンッ!!
静かな部屋の中に乾いた音が鳴り響く。
泣きたく無いのに涙が零れた。身体のあちこちがジンジンと痛みを訴えている。今城之内の頬を打った掌と、腫れた喉と、掴まれた首筋と、頭の中心と、息が出来なかった肺と、そして心が…。
濡れた唇を手の甲で拭った城之内は、キッときつい視線でオレを見据えた。そして先程までの冷たい声のまま、オレに向かってこう言い放つ。
「消えろなんて事…そんなに簡単に言ったら、絶対後から後悔するんだからな。他の誰かじゃない、自分が後悔するんだ。だけどお前がそう言うんだったら、オレはお望み通り消えてやるよ。お前はそれで満足なんだろ…?」
最後の方は声が震えていた。そして少し泣きそうな顔をしながら、城之内はクルリと踵を返すとそのまま部屋を出て行く。
残されたオレは何も考える事が出来ず、ただ椅子に凭れて零れる涙を必死に拭っていた。
『消え失せろ』
まさか本当にその言葉を後悔するなんて…この時はまだ思わなかったのだ。