三月に入って漸く冬の寒さが和らいで来た頃。童実野町にある一番大きな美術館の特別展示室で、城之内が通っていた専門学校の卒業制作展が開かれた。様々なジャンルの作品が整然と並べられる中、その油絵は一番目立つところに展示されていた。
群青色の海の中、ポツンと置かれた古めかしいソファーと、そこで背中を向けて横たわっている人間のヌード画。油絵の下に嵌っているプレートには『漂う青き水の底で』という題名が刻まれている。数ある卒業制作の作品達の間で最優秀賞に選ばれたその絵の周りには、常に何人もの学生や観覧者で溢れかえり、人足が途絶える事が無い。
少し離れた場所から城之内の油絵を見守りながら、オレはその絵の前で繰り広げられる言葉に静かに耳を傾けていた。
「見て、この絵。凄く綺麗」
「綺麗な青色…」
「海だよな…これ。何故か海だって分かるんだよな。不思議だ」
「この人…男の人? それとも女の人?」
「どっちにしろ綺麗な人だなぁ…」
「この絵を見てると息が出来なくなるな。まるで自分が海の中にいるようで…」
「何かこの人…可哀想だわ。ただの絵なのに、見てると泣きたくなるの」
「この人の涙が見えるようだ」
あの絵の中のオレは、泣いているように見えるのだという。そんな気持ちでモデルを務めていた訳では無いのだがな…と考えて、一時は本当に泣きながらポーズを取っていた事を思い出した。
城之内はもう既に引っ越しの準備をし始めている。この卒業制作展が終われば、後は部屋を引き払ってそのままイタリアに行ってしまうのだと言う。
イタリアで絵の勉強をする事に関して話す時、城之内の瞳は期待でキラキラと輝いていた。あんな瞳をされてしまえば、もう引き留める事さえ出来無い。ましてやオレ達の関係は、ただの貧乏苦学生とその協力者というだけなのだから、彼の人生に関わる事にオレが口出しするのも憚られた。
そう…オレ達は何も変わっていなかった。あの日、あの薄暗い八畳間の堅い床板の上で抱き合ってからも、それが切っ掛けで『恋人』になれた訳では無いのだ。『好き』という言葉も『愛している』という意思表示も、オレ達の間では何一つ行なわれていない。
何も…変わっていないのだ。
ただあの時、城之内の気持ちがオレに流れ込んで来た事だけは確かだった。
言葉は無い。態度も今までと全く変わっていない。それでも、城之内もオレと全く同じ気持ちでいると確信出来るのは…オレが自惚れているからなのだろうか…。
二週間後。盛況だった卒業制作展も終了し、飾られていた作品は生徒達の手元に戻って来ていた。勿論城之内も例外では無く、見事最優秀賞を取ったあの油絵もちゃんと戻って来たらしい。「最後にもう一度絵を見に来いよ」という城之内の言葉に誘われて、オレは通い慣れたアパートに足を向けた。
安い平屋の木造アパート。扉を開くと、途端に油絵の具やベンジンの匂いがムッと鼻を刺した城之内の部屋。それなのに、その匂いはもう…感じる事は出来無かった。
いつも狭い部屋だと思っていた。美術関連の道具が所狭しと並べられて、狭い部屋を更に狭く見せていた。だが今は…そのような道具は一つも無い。
ガランとだだっ広い八畳間。置いてあるのはパイプベッドと石油ストーブ、そして愛用のイーゼルだけだ。
「この部屋は…こんなに広かったのか…」
ボソリと呟くと「あぁ、オレもそう思った」と城之内がカラカラ笑いながら口にした。
「余計な物は全部捨てて、本当に使う物だけをイタリアに送っておいた」
「もう部屋は決まっているのか?」
「うん。学生の為の安い寮があるんだ。そこに住みながら勉強するよ」
キッチンで二人分のインスタント珈琲を煎れて来た城之内は、マグカップを持ったまま暫くキョロキョロと視線を彷徨わせていた。だが、机も椅子も無くなった部屋の状況に苦笑し、仕方無くその場に座り込む。
「ゴメン。机と椅子はまだ残しておけば良かったな」
そう言う城之内に首を振って、オレも堅い床の上に直に座り込んだ。コトリと目の前に置かれたマグカップに手を付ける。揺らめく琥珀色の液体を啜りながら、目の前に胡座をかく城之内をじっと見詰めた。いつものように砂糖とミルクが入った珈琲を美味しそうに啜りながら、城之内は静かに微笑んでいる。
「出発は…いつなのだ?」
暫くお互いに黙って珈琲を啜っていたのだが、沈黙に耐えきれなくてつい口を開いてしまった。
城之内は一瞬こちらに視線を向け、そして口に含んでいた珈琲をコクリと飲み下すとふーっと大きな溜息を吐いた。そして空になったマグカップを床の上に置きながら、目を伏せて口元に笑みを浮かべる。
「明日。午後の飛行機で発つよ」
「明日…っ!?」
明日という言葉が、どこか遠い時間のように感じられた。もうあと数時間後の事だというのに、まるで数年先の事のように思えて仕方が無い。だが思わず目を走らせた腕時計の針を見て、城之内の言う『明日』という言葉が急に現実味を伴ってオレの中で反響した。
明日…明日…。そう、もう明日なのだ。残された時間は…無い。
「そ…うか…」
自分でも分かるくらいに声が硬く震えている。多分この動揺は城之内にも伝わっているだろう。
「部屋はもう引き払った。残ったベッドとかストーブとかの荷物も、明日の午前中には送って終了だ。イーゼルだけは何より大事だから、自分の手で持っていくけどな」
「そう…だな。高校の…あの美術教師に貰った大事なイーゼルだからな」
「うん」
「気を付けて行けよ」
「うん」
「向こうでも…身体には気を付けてくれ。余り無理はするな」
「うん」
「それからたまには…」
たまには…何と?
そこまで言いかけて、オレは慌てて口を閉ざした。たまにはメールを? 電話を? 手紙を欲しいと? 恋人でも何でも無い関係なのに、オレは未だに城之内との接触が欲しいというのだろうか。
自分の言動が浅ましく…そしてとても図々しく思えて、オレは自分の口元を手で覆った。
こんなオレの気持ちに城之内はもうとっくに気付いているだろう。真っ直ぐに奴を見られなくて、オレは瞳を伏せて俯いた。だがふいに、目の前で胡座をかいていた城之内がゴソリと動いて、ズルズルと四つん這いでオレに近付いてくる気配を感じた。思わず目を開くと、目の前に真摯な表情でオレの顔を覗き込む琥珀の瞳と視線が合う。
驚いて目を瞠るオレに城之内はゆっくりと手を伸ばして来て、口元に宛てていた手を掴んで引き剥がしていく。そして手首をギュッと強く握ったまま体重を掛けられて、そのまま床の上に押し倒されてしまった。
「じょ…の…んっ!?」
名前を呼ぼうとすると、途端に唇を塞がれる。何度も何度も啄まれるようにキスをされ、やがて口内に熱い舌が入り込んできた。ぬるりと暴れ回るそれに積極的に自分の舌を絡めつつ、オレに覆い被さる城之内の首に腕を回し、大分草臥れたトレーナーの生地を握り締めた。
静かな部屋にピチャピチャという濡れた音だけが響いて、オレの口の端からは飲み込めなかったどちらの物とも言えない唾液がトロリと流れ落ちる。暫くして城之内がオレから離れた時には、舌と舌の間に唾液の糸が繋がっていた。
二人揃って、はぁー…と大きく息を吐き出す。
「海馬………」
オレの口元と繋がった糸を指先で優しく拭いながら、城之内は低い声でオレの名を呼んだ。
「あのイーゼルは凄く大事な物だ。だからイタリアまでは自分の手で持って行く。だけど、あのイーゼル以上に大事な物がある。それこそ本当だったらイタリアまで持っていきたい物が…」
「………」
「海馬…。お前だよ海馬。分かるか? オレはお前の事が凄く大事なんだ」
城之内の台詞に、オレは素直にコクリと頷いた。
あぁ、分かる。分かり過ぎる程に良く分かる。
「でもオレはお前をイタリアに連れて行く事は出来無いし、お前だってイタリアには来られないだろう? 他にも大事な物…一杯持ってるしな」
続けられた城之内の言葉に再び頷く。
何もかもを捨てて城之内に付いて行くには…オレには抱える物が多過ぎるのだ。それは多分、城之内のあのイーゼルや絵に対する情熱と同じような物だ。だから捨てられないし、オレも城之内も抱えている物を捨ててまで我を通す事は出来無い。
ふいに…ポタリポタリと上から水滴が降って来た。その内の一滴がオレの瞳の真上に落ちて、まるで自分の涙のように眦から零れ落ちて行く。
確かめなくても分かる。これは城之内の涙だ。そしてその涙が呼び水になったかのようにオレの瞳もじんわりと熱くなって、熱い涙が溢れてくるのを感じていた。
「好きだよ…」
突然告げられた言葉にも驚きを感じず、オレは喉に流れ込んで来た塩辛い液体をコクリと飲み込みながら頷いた。
「オレ…お前が好きだよ。海馬…」
「オレも…だ…」
涙で喉が塞がって、上手く声が発せられない。本当は大声で泣きたいのに我慢しているものだから、こめかみや喉の奥が痛くて痛くて堪らなかった。多分城之内もオレと全く同じ状態なのだろう。何度も喉を鳴らしながら、震える声で「海馬」とオレの名を口にする。
「なぁ、海馬。あの絵…貰ってくれ」
城之内の言葉にチラリと視線をイーゼルに向ける。そこに置かれているのは、あの油絵だ。
「いいの…か? 最優秀賞を…取った絵だろう…?」
「うん、いい。だからこそお前に貰って欲しい。あの絵は…お前の為だけに描いた絵だ」
固い床板の上に寝転がりながら、オレはイーゼルの上に置かれた油絵を見上げた。群青色の海の底で、オレは古ぼけたソファーに横になって項垂れている。
あの姿は今のオレの姿。オレの心情そのものだ。
「今のお前、あんな風だろ?」
ふいに囁かれた一言に心底驚いた。思わずオレを見下ろす城之内の顔をまじまじと見詰め返すと、城之内が少し寂しそうな笑みを浮かべながらオレの顔を見ている事に気付く。
「あんな風に…」
「城之内…?」
「あんな風に、オレを待っていてくれるんだろう…?」
みるみる内に琥珀色の瞳が潤んでいく。一度は止まった涙が再び流れ出して、オレの顔の上にパラパラと降って来た。その涙を受け止めながら、オレは城之内の首に絡めていた腕を強く引いて、奴の身体を引き寄せた。心地の良い重みがオレの身体にのし掛かる。
「そうだ…。だからなるべく早く帰って来い」
「海馬………」
「ただし、やりっ放しは駄目だ。勉強中の事を途中で投げ出したりとかは、絶対にするな。やるなら全力でやれ。学ぶべき事は全て学んでから戻って来い」
「海馬…お前…」
「お前が満足いくまで学んで来るまでは、オレはずっと『あそこ』で待っていると約束する。お前が描いた海の底で…一人静かに待っていてやる。だから安心してイタリアに行って来い」
「海…馬…っ!!」
「待っている…。ずっと…ずっと待っている。だから…っ!!」
そこから先は言葉にならなかった。初めて身体を重ねたあの日のように、後はただ二人で泣きながら抱き締め合う。
そうする事しか…出来無かった。
季節の移り変わりは早い物だ。
城之内がイタリアに旅立つのを見送ったあの日はまだ三月で、春とは言え吹いている風も冷たかったというのに、今はもうすっかり初夏になっている。青い空が広がり、爽やかな風が吹いていた。多分もうすぐ梅雨が来てこの青空も見えにくくなるのだと思うと、少し寂しいような気がする。
「城之内………」
この青空のずっと向こうに、城之内がいる。距離は大きく離れているが、その事がオレをほんの少しだけ安心させていた。
後日、城之内から「これも貰ってくれ」と届けられたあの薔薇模様の古びたソファーに座り、ノートPCを起動させてメールのチェックをするのがオレの日課になっていた。こうやって城之内から届いたメールをゆっくり読むのが、最近の楽しみになっている。
先日貰ったメールでは、言葉が通じなくて意思の疎通が大変だという事が書かれていた。だがそれ以外には特に問題無いらしく、スケッチブックにデッサンをして水彩絵の具で簡単に色を付けた絵が添付されて送られて来た。
世界中を飛び回るオレでさえ見た事が無いような、明るいイタリアの町並み。白い壁と青い空と、向こうに見えている緑の森と、手前の道路に寝転がる猫。美しい街だと…素直に感嘆する。
決して写真では無く、自分が描いた絵で送ってくる辺りが城之内らしいと自然に笑みが浮かぶ。そして同時に、彼が側にいない寂しさを思い出した。
城之内が日本を去ってまだ二ヶ月。この先どれくらいイタリアに行っているか分からない。一年か、二年か、三年か、それとももっと掛かるか…。
寂しさに慣れる事は決して無いだろう。だがその度に、オレは自室に飾ってあるあの油絵を見て耐えるのだ。簡単には泣けない現実のオレの代わりに、群青色の海の底で泣きながら寂しさを全身で訴えている『オレ』の絵を…。
「今日も…ちゃんと待っているぞ…。だから早く帰って来い…城之内」
絵に向かってボソリと呟き、オレは目を閉じて自分の意識を群青色の海の中に落とし込んだ。揺らめく青い水の中で、あのソファーに横になって城之内を想う。それはオレにとって城之内への愛を確かめる、大事な大事な時間だった。
寂しい時間は今後も続くであろう。だが決して不安では無い。いつかきっと、城之内がオレの元に帰って来ると知っているから…。
だからオレは今日もその絵を眺めながら、遠い地で夢を追いかけている愛しい男の事を想うのだった。