*漂う青き水の底で君を想う(完結) - 額縁 - *五枚目

 四季の中でも秋は特に短く、あっという間に終わってしまう。気が付けば冬がやって来てクリスマスや正月も終わり、もうすぐ二月になろうとしていた。テレビの中では連日のようにチョコレートのCMを流し、街は赤やピンクや白などの可愛らしい色で溢れている。外はまだ寒いというのに、そんな寒さを感じさせないほど街は賑やかだった。
 それなのに、この狭い八畳間は外界とはまるで違った雰囲気の静かな空気を醸し出している。


 オレが城之内の卒業制作のモデルを引き受けてから約五ヶ月。イーゼルに立てかけられた油絵はそろそろ仕上げに掛かっているらしかった。気分の赴くまま筆を走らせていた初期の頃とは違って、最近は特に丁寧に描いているのが分かる。神経を集中させている城之内の気配が、背後から痛い程に伝わってくるからだ。

「ふぅ………」

 城之内に気付かれないように、オレは肺に溜まった淀んだ空気を静かに吐き出した。
 卒業制作の提出期限は二月に入ってすぐだという。オレの方ももうすぐ年度末の業務で忙しくなり、余計な時間は全く取れなくなる。これまでのように暢気にモデルをする事も出来なくなるだろう。よって城之内のモデルを努めるのは、実質的に今日が最後…もしくはあと一回が限度だった。

「………」

 部屋の中は本当に静かだった。聞こえるのは城之内がキャンパスに筆を走らせる音と、ストーブの上に置いた薬缶が吹き上げる蒸気音、あとは二月の風が窓を揺らすガタガタという軋みだけだ。
 ヌードモデルをしているオレの為に部屋の温度は相変わらず高く、真冬だというのに城之内は未だに半袖で絵を描いている。たまに流れ落ちる汗を腕で拭っている気配もしていたが、どんな事をしても決して城之内の集中が途切れる事は無かった。奴の瞳はポーズを取っているオレか、キャンパスの絵にしか向けられていない。
 部屋の中央で実際にソファーに横たわっているいるオレと、キャンパスの中でも同じように横たわっているオレの姿。そのどちらも『オレ』である事には違いない。そうだ…、城之内が見詰めているのはこのオレだけなのだ。
 その事を妙に嬉しく感じ、そして心の中で強く願う。どうかこの姿が、城之内の心の底にずっとずっと強く居座っていますように…と。

『だから、学校を卒業したらイタリアに留学するって言ったんだ』

 あの衝撃的な城之内の告白の後、オレは自分の気持ちに無理矢理気付かされ、そして同時に宣言された別れに一人涙を零した。城之内が日本を去るというショックからは、未だに抜け出せてはいない。だが、実際に泣いてしまったのはあの日が最初で最後だった。
 あの日、約束の一時間後に目を真っ赤に腫らしたオレを見て、城之内はただただ驚くばかりだった。「どうしたんだ?」とか「具合が悪いのか?」とか本気で心配する声に、「目にゴミが入っただけだ。埃が溜まっているようだから、たまには掃除しろ」と言い捨てて、オレはさっさと身支度をして邸に帰ってしまった。
 部屋が汚れていたのは事実だったので城之内はオレの言葉を素直に受け止めて、その後にきちんと掃除をしたらしい。次の週にやって来た時には見違える程に部屋が綺麗になっていて、自分の嘘の発言等すっかり忘れていたオレは逆に面喰らった程だった。

「どうだ? 綺麗になっただろ? コレでお前も安心してモデルが出来るよな!」

 得意げに言い放つ城之内に苦笑して、オレはコクリと頷いてみせる。そんなオレに城之内は大喜びして、特別美味しい珈琲を煎れてくれたのだった。
 幸せな時間だったと思う。だが、城之内のそんな行動は、オレの本心に何一つ気付いていないという証拠でもあった。
 いや…気付く事は無いだろう。オレと城之内は、只の絵描き志願者とその協力者。そして今は、画家とモデルの関係だ。オレの恋心に…ましてや男が男に惚れた等という事に、あの鈍い城之内が気付く筈が無い。
 別に気付いて欲しかった訳では無いのだ。オレ自身も、この気持ちは誰にも打ち明けようとは思わない。
 だが少し…誰かを想うという事に対して、虚しいと感じていたのも事実だった。


「………?」

 そんな事をつらつらと考えている内に、部屋の中はすっかり暗くなってしまった。冬至の頃に比べて大分日が延びてきたとは言え、冬の日差しはやはり短い。オレの記憶が確かならば、完全に日が落ちるまでに一度休憩を取る筈だったのだが…。
 そう言えば、いつもは昼間から煌々と照らされている電気も消えている。ストーブの火だけが赤く浮かび上がる薄暗い八畳間。西の窓から消えかかった茜色が、ほんの少しだけ見えている。宵闇に反応して街灯がパッと灯り、通りに面した窓からボンヤリとした白い光が入り込んできた。

「城之内………?」

 オレの背後には間違い無く城之内がいる筈だ。オレの背中をじっと見詰めている奴の視線を感じる事が出来る。だが、いつも感じていた絵を描く動作が全く感じられない。この薄暗い世界で、城之内はただただオレにだけに強い視線を送っていた。

「城之内…? 灯り…点けなくていいのか? こう暗くては絵が見えないだろう…」

 呼びかけても返って来ない返事に不安になり、もう一度話しかけてみる。ポーズを崩す訳にはいかないから言葉だけを放ってみるが、それでも城之内が動く気配は無かった。
 じっと…ただ強くじっとオレの事を見詰める城之内。だが暫くして、カタリという筆を置く音と共に城之内がパイプ椅子から立ち上がる気配がした。一言も喋らないまま、奴は床板を踏みしめてオレの背後まで近付いて来る。

「じょうの…」
「黙って」

 呼びかけた名前は、城之内の発した一言に即座に消え失せてしまった。
 そのまま上から見下ろされるように見詰めて来る視線を感じて、オレは身体を強ばらせてしまう。城之内が一体何をしたいのかが分からなくて混乱した。

「海馬………」

 どの暗い時間が経ったのだろうか。
 低い低い声が、オレの遙か上から降ってくる。その声が心なしか震えているようなのは、オレの気のせいなのだろうか…?

「海馬…そのままじっとしていてくれ。何もしないから…。お前が嫌がるような事や、お前が困るような事は何もしないから…。しないって約束するから」
「………?」
「だから…ちょっとだけ…。ほんの少しだけでいいんだ。お前の肌に触れさせてくれ」
「っ………!? な…何…を…?」
「今見えてる部分だけでいいんだ。少しだけ…触らせて…。頼むからそのまま…動かないで…」
「………っ!!」

 暗闇の中に響く城之内の声に、オレは二の句が継げなかった。
 あぁ…まただ。またこの感覚だ。奴が一体何を言っているのかが分からない。分かる筈なのに…理解出来ないこの感じ。一度目はヌードモデルを頼まれた時、二度目は卒業後にイタリア留学すると告げられた時、そして三度目が今だ。
 何なのだ…。城之内は一体オレに何を告げようとしているのだ?

「っ………!!」

 そう内心で感じていた疑問を口に出そうとした時だった。背後に突っ立っていた城之内がその場にしゃがみ込み、オレの背中を掌でそろりと撫でた。
 熱くてガサガサに荒れた掌。油絵の具で汚れた手を、何度も何度も洗っているせいだ。ひび割れた指先が肌に引っ掛かって痛みすら感じる。

「いっ………!」
「ゴメン」

 引っ掻かれるような感触に思わず抗議すると、直ぐさま謝罪の言葉が飛んでくる。だが城之内がその掌を引っ込める事は無かった。
 ストーブが焚かれているとはいえ、剥き出しの肩や背中はやっぱり冷えている。その冷たくなった肌に、城之内の体温は至極熱く感じられた。肩胛骨や背骨の辺りを何度も撫でられ、首筋に指先が纏わり付く。その感触に背筋がゾクゾクとし、思わず身体をブルリと震わせた。

「海馬………」

 だが城之内はオレの反応に対して何も言わない。その代わりに後ろ髪を掻き上げられ、露わになった項にそっと唇を落とされた。ただ乾いた唇を滑らせるように肌に押し付け、背骨に添ってゆっくりと下がってくる。肩や肩胛骨を優しく撫でられながら、城之内が以前言っていた尻の割れ目…つまり尾てい骨の辺りを軽く吸われた時、急激に背筋を駆け抜けた快感にオレは耐える事が出来なかった。

「あっ………!」

 我慢出来ずに甘い声をあげ、ビクリと身体を跳ねさせる。その拍子にソファーの背からオレに垂れ下がっていた白いシーツが床に落ちて、まるでそれが合図だったかのようにオレは勢いをつけて振り返った。
 驚いたように目を瞠る城之内の首に腕を絡めて、半開きになった奴の口元に自分の唇を押し付ける。

「か、かい…むぐっ!!」
「っ…んっ…!!」

 身体を押し付けながら全体重を掛けると、バランスが狂って二人揃って床に転がってしまった。ガタンッ!! という大きな音が部屋に響く。

「いって…っ!!」
「じょ…の…うちぃ…っ」
「え…? 海馬…?」
「城之内…っ!!」

 ソファーから転げ落ちたオレを庇った為に、城之内は腰と背中を強く打ち付けたらしい。眉を寄せて顔を顰めていたが、オレはそんな事に気を回せる状態では無かった。
 分かり易く言えば、興奮…というより欲情していたのである。今まで城之内に対する想いを堰き止めていた何かが決壊したかのように、城之内を愛しいと想う気持ちがオレの中を濁流となって巡って、オレはそれに抗う事が出来なくなっていた。
 無我夢中で眼下に見える城之内の唇に吸い付き、今やはっきりと形状を変えた自分のソレを城之内の太股に押し付ける。薄く開いた唇に舌を押し込んで、熱い位に感じる口中を必死で舐め回した。

「海…馬…っ」
「んっ…! はっ…ぅ…っ!」

 やがて、されるがままだった城之内がオレの舌に応え出して、いつの間にか自分の口内を舐め回されていて…。二の腕をギュッと強く掴まれたと思ったら、一気に反転させられて体勢が百八十度変わっていた。
 床の上に寝転がるオレと、そんなオレを見下ろす城之内。お互いにハァハァと息が荒い。薄闇の中で暫く黙って見詰め合って、ややあって激しいキスのせいで唾液に濡れたままだった唇が再びオレの唇に押し付けられた。
 ぬるりと入り込んでくる舌に積極的に応えつつ、城之内の背に腕を回してTシャツの布地を強く掴む。それを感じ取ったのか、城之内の熱い掌が再びオレの全身を撫で回し始めて、否応なしに感じる快感に甘く喘ぎつつ、オレはソファーの足を蹴り飛ばした。
 ガタンッとソファーが堅い音を起てる。その音をどこか遠くで聞きながら、後は互いの身体にしがみつくので精一杯になった。



 はっきりと覚えているのはそこまでだ。
 分かっているのはオレと城之内はあの暗い八畳間の堅い床板の上で、ベッドに移動する事も無くセックスしてしまったという事だけだった。

 夢中だった。ただただ夢中で、他には何も考えられなかった。

 板間の上で無理な体勢をとらされていた為に、今も全身がズキズキと痛んでいる。ソファーの背に掛かっていたあの白いシーツに全身を包み、城之内が普段使っている安いパイプベッドに寝転がりながら、オレは今は明るく照らされた電気の下でキャンパスの前に佇んでいる城之内の事を見詰めていた。
 下半身にジーンズだけを履いた城之内はじっと自分が描いた絵を見詰め、そしてゆっくりとイーゼルをこちらに向ける。目の前に現れた油絵に、オレは驚きと感動で目を丸くした。


 そこは青い海だった。青い青い…空のような明るい青では無く、もっと深い群青色の海の中。深海にも…夜の海にも見える、他に何の生き物も感じられない静かな水の中に、そのソファーはポツンと置いてあった。
 まるで場違いな古ぼけたソファー。オレはそこに横たわっていた。白いシーツが中途半端に身体に掛かり、俯き加減にしなだれている。
 疲れているようにも、ただ眠っているだけのようにも見える。見方によっては泣いているようにさえ見えた。
 群青色の海の中、ぼんやりと白く浮かび上がる白いシーツとオレの背中。ソファーの背に掛かる腕や、床に落ちる足も生々しい。


「完成…したんだな」

 ポツリとオレが呟くと、城之内が静かな笑みを浮かべながら黙ってコクリと頷く。

「そうか…。これが…そうなのか」

 口元に笑みを浮かべてそう言った瞬間に、ホロリホロリと…涙が零れ落ちてくる。この間の時のようにそれを隠す事も出来ずに、次から次へと溢れ出てくる熱い涙をオレはただ白いシーツに染み込ませていった。

「海馬………」

 微笑みながら泣くオレに城之内は困ったように笑って、大股で近付いて来てシーツごとオレの身体を強く抱き締めた。じわりと伝わってくる体温が愛おしい。堪らなくなってシーツから腕を出し、上半身裸のままの城之内に強く抱き付く。
 そのままベッドの上で強く抱き締め合いながら、オレは随分長い事泣き続けていた。



 城之内が描ききったその青く美しい海の絵は、オレと城之内の別離を決定付けるものだった。
 群青色の水の中で泣いているかのように項垂れるオレの姿は、これから城之内に置いて行かれるオレの心情そのものだと…そんな風に感じられてならなかった。