*漂う青き水の底で君を想う(完結) - 額縁 - 四枚目

 城之内の卒業生制作のモデルを引き受けて、二ヶ月が経っていた。季節はもうすっかり移り変わり、オレが初めて城之内の絵を目に留めたあの日と同じ、高く澄んだ青空が広がるようになっていた。外では大分涼しい風が吹くようになっていたが、部屋の中は随分と温かい。裸でいるオレの為に、城之内が未だ秋だというのにストーブをガンガンに焚いている為だ。お陰でオレ自身は快適なのだが城之内の方は暑くて堪らないらしく、常に半袖で絵を描いているのだった。

「………」

 背後で夢中になって絵を描いている気配を感じながら、オレは小さく嘆息した。今ではすっかり見慣れてしまった薔薇の花を見詰めて、そのままそっと瞳を閉じる。時計は見られないから確かな事は言えないが、感覚からすれば多分もうすぐ休憩の筈だ。
 最初はじっとしているだけで辛かったモデルも、二ヶ月もすればすっかり慣れてしまった。体勢が楽なせいもあるが…と考えて、思わず苦笑してしまう。今でこそ力の抜き方を覚えたものの、最初の頃は横に寝転がっているだけも身体に力が入り、全身が凝り固まってしまったものだった。

 多分あともう少し…。城之内が筆を置き、深く息を吐くのが合図…。

 そんな事を思いながら瞳をゆっくり開いたその時、背後からカタリと筆が置かれる音と共に、ふーっという如何にも満足したような吐息が聞こえて来た。次いで「お疲れ様。休憩にしよう」という城之内の声に何となく嬉しさを感じながら、オレは自分の身体をゆっくりと起こしていく。


 薄手のガウンを羽織って腰紐を結び、ソファーから立ち上がってぐっと伸びをする。慣れたとは言え、ずっと同じ姿勢でいる事に疲れを覚えない訳では無い。凝り固まった筋肉を解す為にあっちこっちを伸ばすと、背骨や首の骨がポキリと音を立てた。

「疲れただろ。今日はあと一時間で終了だから、我慢してくれよな」

 オレの骨が鳴った音を聞き咎めて、城之内が苦笑しながらそう言ってくる。そして熱い珈琲の入ったマグカップを机の上に二つ置いて、パイプ椅子にドッカリと座り込んだ。油絵の具で汚れた手や腕を濡れ布巾で軽く拭って、手前に置かれたマグカップに手を伸ばす。そしてそのまま、既に砂糖とミルクが入っている自分用の珈琲を啜りだした。
 それを見てオレももう一つのパイプ椅子に座り、ブラックで用意されたマグカップを手に取って少し息を吹きかけて冷ました後、揺らめく琥珀色の液体を一口飲んだ。安いインスタント珈琲だが疲れた身体には丁度良い味だ。温かい液体が胃に落ちていく感覚に、ホッと一息吐く。

「いい夕焼けだな」

 城之内の言葉に窓の外を見れば、そこは真っ赤に染まっていた。秋の夕日が今にも西の地平に消え入りそうになっている。

「大分日が短くなってきたなぁ…」
「そうだな」
「この日がまた長く伸びる頃には、ちゃんとお前の絵が出来ていればいいんだけど」
「馬鹿な事を言うな。出来ていないと困るのはお前の方だろう?」
「あはは! 確かに」

 クスクスと楽しそうに笑いながら、城之内は珈琲を啜っていた。オレもブラックの珈琲をゆっくりと飲み干していく。そしてチラリとイーゼルの方に目を向けた。
 イーゼルはいつでもオレに背を向けている。描きかけの絵を見せて欲しいと頼んでも、城之内は決して見せてはくれなかった。休憩の時も絶対にオレの目に留まらないように、イーゼルの向きを変えるのだ。

「何? 絵が気になるの?」

 オレがじっとイーゼルを見ている事に気付いたのだろう。城之内がパイプ椅子から立ち上がりながら、ニッコリと笑いつつ言葉を放つ。そのまま差し出してくる手に空になったマグカップを押し付けつつ、困ったように笑みを浮かべる城之内を軽く睨み付けた。

「気になっていても見せてくれない癖に、何を言う」
「うん。完成するまでは見せてあげない」
「大体モデルはオレなのだぞ? オレにだって見る権利はあると思うのだが」
「分かってるよ。だから完成品は『一番』に見せてあげるって言ってるんだ」
「途中経過だって気になるだろう?」
「それはダメ。描きかけの絵を見せるなんて、そんなお前に対して『失礼』な事は出来ない」

 妙に真剣な光を瞳に載せ、城之内はそう言ってクルリと背を向ける。そのまま空になった二つのマグカップをシンクに持って行くのを横目で見ながら、オレはムスッとしながら立ち上がった。時計を見ればもう十分が過ぎようとしている。休憩は終わりだ。これからラスト一時間のモデル業が始まる。
 ソファーに近付いて羽織っていたガウンを脱ぐ。薄手とは言え、肌を覆っていた物を脱ぐと流石に寒さを感じた。ブルリと身体を震わせると「大丈夫か?」という、心配そうな城之内の声が背後から響く。

「寒い? ストーブ強くする?」
「いや、平気だ」
「大分涼しくなってきたもんなぁ…。次回からもう少し厚手のガウンを持って来た方がいいかもしれないぜ」
「そうだな。そうする」
「あぁ…そうだ海馬。オレ、実は…」

 ソファーに横になり、いつものように城之内が白いシーツを上から被せていくのを感じつつ、淡々とそんな会話をしていた。
 それはいつもと全く変わらない光景だった。同じポーズを取り、シーツの位置を決めた城之内が満足げにイーゼルへと戻っていって、置いてあった筆を再び手に取ってキャンパスに走らせていく。それが二ヶ月間ずっと続いてきたオレ達の儀式の筈だった。それなのに…。その日に限って城之内はオレが全く予想もしなかった事を言い出したのだった。
 余りに突然の言葉に、オレは訳が分からなくなる。知っている筈の言葉が、まるで知らない外国語のように聞こえる。
 この感覚には覚えがあった。これは二ヶ月前に「ヌードモデルになって欲しい」と城之内に頼まれた時とよく似ていたのだ。

「今…何て言った…?」

 オレの腰の辺りのシーツを微調整している城之内を、横目で睨み付けながらそう問い掛ける。自分でも分かるくらいに声が強ばっているのが、妙におかしく感じた。

「だから、学校を卒業したらイタリアに留学するって言ったんだ」
「は………?」

 城之内が一体何を言っているのかが分からない。イタリア? イタリアってどこの事だ? あのヨーロッパのイタリアか? 日本から遠く離れた…あのイタリアの事なのだろうか?

「その為にずっと貯金して来たんだ。それにこの間久しぶりに静香に会いに行った時にさ、母親にこの話をしたら全面賛成してくれたんだよ。何かオレの将来の為に貯金してた金があるとか言って、それを少し出してくれるらしい」
「………」
「かなりギリギリの金額だけど、やってやれない額でも無い。思い切ってイタリア留学して、向こうで絵の勉強してくるよ」
「ど…く…らい…?」
「ん?」
「どれくらい…行くのだ…?」
「それは分からない」
「この部屋はどうするのだ」
「引き払うよ」
「オレを…置いて行くのか!?」
「え………?」
「っ………!?」

 一瞬…自分の言った言葉が、まるで他人の言葉のように耳から入ってきた。
 オレは今…一体何を言った? オレと城之内の関係は、絵描きを目指して勉強中の苦学生とその協力者というだけだった筈だ。それなのに何故、置いて行かれるのが嫌だなんて思ったりしたのだろう…?

「海馬…?」
「い…いや、何でも…無い…」
「海馬…。だってお前…」
「何でも無いと言っている! 早く向こうに戻って絵を描け!!」

 大声で喚くと、狭い八畳間に暫しの沈黙が舞い降りた。だがややあって、呆れたような盛大な溜息の後に城之内がイーゼルへと戻っていく足音が聞こえて来る。その気配を背後で感じながら、オレはオレで静かに深い溜息を吐いた。目前で咲く赤い薔薇の花を見詰めながら絶望感に苛まれる。


 気付いてしまった…。気付いてはならない事に気付いてしまった。
 絵描きになりたいという夢を持った城之内に協力したいと、ただそれだけを想っていた筈だったのに…。それが恋心に変化してしまっている事に気付いてしまった。
 だが、今更その気持ちに気付いたからといってどうなると言うのだろう? 城之内はオレの事なんて何とも思っていないというのに。オレの全裸を見ても顔色一つ変えず、ただ黙々と絵を描き続ける日々。それどころか、あと半年でイタリアに留学するというのに。

 オレは…置いて行かれるというのに…。

 男が男に恋をした…。その時点で自分の気持ちが信じられないというのに、この状況は余りにも辛過ぎる。
 オレの元を離れる城之内を引き留める事なんて出来やしない。絵描きになるという城之内の夢を応援すると決めた時から、彼の邪魔をする事だけは出来なかった。

「っ………」

 いつも背後から感じるだけの気配。たまには城之内が真剣な表情でオレの身体を描いている姿を、実際にこの目で見たいと思っていた。それが出来ないポーズに苛立ちさえ感じていたのだが、今回だけはこの背面を見せるポーズをありがたく感じる。
 泣きたくなんて無かったのに、涙が勝手に零れ落ちていく。目の前に咲いている薔薇の花が赤く滲んでいった。せめて泣いている事が城之内にバレないようにと、全身に力を込めて身体が震えるのを我慢する。

「どうした海馬。珍しく力が入っているぞ。もう少しリラックスしてくれ」
「………」

 オレの異変を察知した城之内の注意が飛んでくる。けれどオレは暫くの間、身体の力を抜く事が出来なかった。



 城之内がイタリア留学するまであと半年。
 今もキャンパスに出来上がりつつあるオレの絵が永遠に仕上がらなければいいと…、泣きながらそんな事ばかりをずっと考えていた。