ヌードモデルをやって欲しいという城之内の申し出を聞いてから二週間後。オレは再び城之内の部屋を訪ねる事になった。理由は言わずもがな。城之内の卒業制作のモデルをする為だ。
あの時、モデルを引き受けるという返事は即答する事が出来なかった。城之内の為にモデルとしても協力をする事は一向に構わなかったが、流石にヌードモデルともなると、そう簡単に決意するのは無理だったのである。
普通だったら速攻断わっていただろう。それなのに、あの時に見た城之内の瞳が余りに真剣で、オレは断わる術を全て失ってしまっていたのだった。
結局三日後に電話で了解の旨を伝え、今に至るという訳だ。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに城之内が出てくる。何かをやっていたのか、額に汗をびっしょり掻いていて、それを腕で拭っていた。
「いらっしゃい。言っといたもの、ちゃんと持って来た?」
「薄手のガウンだろう? ほら、持ってきたぞ」
「バスローブでも浴衣でも何でもいいんだけどさ、今の季節は薄い方がいいと思ってな」
「こんなもの何に使うのだ?」
「休憩する時に羽織るんだよ。それともお前、裸のまんまで休憩したい?」
「なっ…!」
「まぁいいから入って。そんで洗面所で今着てるもの全部脱いで、持って来たガウン羽織って部屋に来て」
「全部…? 下着もか?」
「当たり前だろ? ヌードモデルなんだから」
オレの質問に城之内は何でも無いように答え、自分はさっさと奥に引っ込んでしまった。
よく考えたら城之内はヌードデッサンに慣れているのだ。専門学校に入った時から苦手な人物画を克服するべく、個別にゼミも取っていると言っていたくらいだから。
最初オレは、それならばもうオレのデッサンは必要無いではないかと言った事があった。だが城之内はその問いに対して「モデルさんは皆女性ばかりなんだよ。男の練習もしたいから引き続き頼む」と答えて、結局オレをデッサンし続けていた。
夏も終わりに近付いていたが、未だ暑い季節なのは変わらない。汗でべとついたシャツを脱いで、城之内の部屋の洗面所でオレは全裸になった。鏡に映った白くて真っ平らな身体に溜息を吐く。
こんな面白味の無い身体で、一体何を描くというのか…。どうせ描くなら、専用のモデルでも雇えばいいのにと思って止めた。常にギリギリの状態で生活している城之内に、モデルを雇う金なんて無い事を思い出したからだ。
その点、何でも協力するオレは奴の格好のモデルとなる。それ以上もそれ以下も無い。だから城之内がオレをモデルに選んだのは、特に深い意味は無いのだ…。
城之内がオレをモデルに選んだ事に対して何とか理由付けをしたくて、オレはここ何日かずっとそんな事ばかりを考えていた。
別にどうだって構わない筈だ。城之内の行動に意味があろうと無かろうと。だがオレは、どうしてもそこに理由を捜してしまうのを止められなかった。何故か胸がズキリと痛む。絵描きになる城之内の為に協力し、その夢を支えると決めたのは自分だった筈なのに。奴が立派な絵描きになって、あの日見た美しい空の絵をもっと沢山見たいと思っただけだったのに。
それなのに何故か、オレは城之内がオレを『利用』する事を『嫌だ』と考えるようになっていた。
「何故なのだ…」
持って来た薄手のガウンを羽織りながら、深い溜息を吐く。
城之内の絵が上達していくのを、心から感心しながら見守っていた。だがそれとは別の何かが胸の中で生まれつつあった事に、オレはもう気付き始めている。その『何か』の正体がもう少しで見えると思った矢先に、部屋の奥からオレの名を呼ぶ城之内の声で、見えかけた『何か』は綺麗に掻き消されてしまった。
掴み損ねた答えにガックリしながらも、オレは再度呼ばれた声に誘われるように部屋へと戻っていった。
ドアを開けると、いつもの八畳の板間に見慣れない家具が置かれているのに気が付いた。古ぼけた…だが結構趣味が良い布張りのソファーが部屋の中心にドンと置かれている。焦げ茶の布地に小さな赤い薔薇がいくつも咲いている模様だった。
かなり流行遅れの模様だが、間違い無く品も質も良いソファーだ。
「中古家具屋で買ってきた」
まだ何も言っていなかったのだが、オレの視線に気付いた城之内がそれを見越して先に答えを言って来る。
「じゃ、とりあえずガウン脱いでみてくれる?」
「は………?」
「だからガウン脱いで。身体を見たいから」
「っ………!!」
「今更恥ずかしがるなよ。モデルさん達はみんな、気持ち良いくらいにさっさと脱いでくれるぜ?」
ヌードを晒す事を別に何でも無いように言われて、慣れていないオレは面喰らってしまう。
そんな事を言われても、オレはプロのモデルじゃ無い! そんなに簡単に裸を晒せるか!!
そうは思ったが文句を言うだけ無駄なような気がしたので、仕方無しに腰紐を緩めてガウンを肩から滑り落とした。薄い布地がパサリと床に落ちて、狭い八畳間にオレの裸体が露わになる。恥ずかしさに顔がカッと熱くなったが、目の前の城之内が少しも表情を変えないので何とか耐える事が出来た。
「うーん…」
まるで居場所が無いように立ち尽くすオレに城之内は軽く唸って、頭の先から爪先までじっくりと見定めていった。そして再び視線を上の方に戻すと「ちょっと背中見せてくれる?」と軽い口調で言い放つ。
言われた通りに振り返ると、今度は背中をしつこいくらいに見詰められてしまった。
「うん、よし。決めた」
どのくらい時間が経ったのだろうか。突然ポンと手を打った城之内がそう言って、用意してあったソファーに近寄っていった。そしてガタガタとソファーの位置を直すと、オレの方を振り返ってクイッと顎を動かす。
「これ。ここに寝転がってくれる?」
「このソファーにか?」
「うん。背中をこっちに向けて、横向きで。つまりお前は背もたれ側に向く感じでな」
「背中…? 背中を描くのか?」
「そう。お前の背中を描く」
正面からの絵では無い事に、ほんの少しだけホッとした。正面を向いていれば、必然的に城之内の視線が目に入ってくる事になる。今のオレには、その視線は耐えられないと思ったのだ。
言われた通りに身体の左側を下にして、背中を城之内側に向けるようにして横たわった。「もうちょっとこっちに」とか「頭少し下げて」とかの微調整を行ない、やがて満足のいくポーズになったのか、城之内が「うん」と自信満々に頷く声が頭上から聞こえて来た。
「大丈夫? ポーズはキツクない?」
「平気だ。楽な姿勢で助かる」
「良かった。んじゃ、そのままじっとしててな」
そう言って城之内は、今度は机の上から真新しい白いシーツを手に取った。それをますソファーの背に斜めに掛けて、オレの下半身へと垂らしていく。腰から下を覆うように感じた布地の感触に、オレは下半身が隠された事に心底安堵した。だが城之内は、その布地を少しずつずらしていく。
「おい…! それじゃ…」
「尻が見えるって? ヌードモデルなんだから、尻くらいで喚くなよ。安心しな、全部見せると却って下品になるからちょっとしか出さない」
「ちょ…っ。ちょっとって…お前…っ」
「ちょっとはちょっとだよ。あぁ、動くなってば。こう…尻の割れ目が見えるか見えないかくらいが丁度良いんだ」
「わ…割れ…っ!?」
慣れないモデルとあからさまな発言に焦るオレを余所に、当初の位置より大分シーツをズラしながら、城之内は真剣な声色でそんな事を言っていた。何度かシーツを動かしていたが、やがて気に入った場所に落ち着いたらしい。残りの余った布地を床に落とし、わざと皺が寄るように広げながら「よし」と満足げに呟く。
立ち上がり離れて行く城之内の気配に、オレは気付かれないように小さく嘆息した。
オレ自身は城之内に背中を向けている為、彼の行動を直接見る事は出来ない。ただ、気配だけは手に取るように分かるのだった。
立ち上がり、イーゼルの置かれた位置まで歩いて行く。椅子に座り、ポーズを取ったオレの背中を見詰める。暫く思い悩んで、やがて下書き用のクロッキーを動かし始めた。
「休憩は一時間に一回、十分な」
「あぁ」
「暇だったら喋っててもいいから」
「そんな余裕は無い。大体喋り掛けても、集中している時の貴様は受け答えしないだろう」
「あはは。確かに」
最初はそんな事をのんびり言い合って。だがオレの言葉通り、その内集中し始めた城之内は一言も言葉を発しなくなっていった。布地のキャンパスにクロッキーを走らせている音だけが部屋に響く。
何故だか妙な気分だった。それなのに、先程まで感じていた『利用されて嫌だ』という気持ちはどこかに行ってしまっていた。
オレの裸体を見た城之内の態度が、余りにあっさりしていたからかもしれない。その事で、それまで感じていた緊張が緩和されたのは確かだった。
利用されていても、別にいいじゃないか。
城之内が真剣にオレの身体を描いているのは、紛れも無い事実なのだから…。
呼吸音すら聞こえない程集中して絵を描いている城之内の気配を感じながら、オレはソファーの背もたれに咲く赤い薔薇の花を見続けていたのだった。