*漂う青き水の底で君を想う(完結) - 額縁 - 二枚目

 城之内から絵描きを目指しているという夢を聞いてから、オレ達は度々二人だけで過ごすようになっていった。天気の良い日は屋上で風景画を描き、天候が悪い時は放課後の教室でスケッチブックに人物画を描く日々。そのモデルは何故か、いつもオレだった。
 特に何かのポーズを取るという訳ではない。ただ椅子に座らされて「動かないで」と念を押される。そして黙って座っているオレの周りを移動しながら、城之内はスケッチブックに鉛筆でデッサン画を描いていた。静かな教室に、鉛筆が紙に擦れるシャッシャッという音だけが響いている。

「風景画ばかりじゃなくて、たまには人物も描けって先生に言われたんだ。でもオレ人間なんて書いた事無いから、下手くそでさ~」

 デッサン用に使っている濃い鉛筆のせいで、城之内の掌の横は真っ黒に汚れている。それでもそんな事は全く気にせずに、紙の上に浮かんだ鉛筆の芯の粉をフーッと吹き飛ばし、一旦スケッチブックを閉じて笑った。

「それでも最初の頃よりは、大分上手くなって来たんだ。見てみる?」

 約一時間近く黙って座っていた為に、オレも身体が凝り固まってしまった。グイッと伸びをして身体の筋肉を解していると、城之内がそう言って自分のスケッチブックを差し出して来る。オレはそれを受け取って、パラリとページを捲ってみた。
 最初の方に描かれているデッサン画は確かに酷いものだ。絵の経験が全く無いから仕方無いのかもしれないが。だが、途中から驚異的なスピードで絵が上達していっているのが分かる。
 最後の頁は少し俯き加減のオレのバストカット。長い間じっとしていた為に、少しだけ疲れを見せる顔。つい先程までのオレの姿だ。

「上手くなったな…」

 お世辞では無い。本当にそう思ったら、自然と褒め言葉が口をついて出た。城之内自身もそう思っているのだろう。オレの言葉を否定したりせずに、得意そうに笑ってみせる。

「十分休んだら、もう少しだけ描かせて。あと二~三枚でいいからさ」
「構わん」
「あっと…。仕事は大丈夫なんだよな? 引き留めてゴメン」
「仕事があったら最初からこんな事には付き合わない。変な事に気を使うな。どうせオレしか描く相手はいないんだろう?」
「描く相手っつーか、描く気が無いっつーか…」
「………? どういう事だ?」
「いや、こっちの話」

 オレの手からスケッチブックを取り上げながら、城之内はそう言って少し困ったように笑ってみせた。


 これがオレ達の高校での過ごし方だった。高校二年生の秋に再会してから、毎日のようにこうして城之内と付き合っている。
 季節はあれから一年以上が経ち、秋が終わり冬に入っている。暖房の消えた肌寒い教室の中、城之内がスケッチブックに鉛筆を走らせている音だけがいつまでも響いていた。



 オレが城之内の人物デッサンのモデルになるのは、高校を卒業してからも全く変わらなかった。
 高校卒業後、城之内は当初の予定通り学生ローンを組んで、美術系の専門学校に入った。入学と同時に一人暮らしも始め、週末や祝日はオレはそこの部屋に招かれる事になった。
 最寄り駅から徒歩十五分の、小さな平屋の木造アパート。部屋は八畳一間。古い家なので、キッチンとトイレバスは別々になっている。
 最初その部屋に足を踏み入れた時、八畳の板間の部屋はガランとしていた。家具は安いパイプベッドと箪笥が一棹。中古家具屋で買ってきた馬鹿でかくて丈夫な机が一つとパイプ椅子が二つ。それだけがその部屋の全てだった。
 だが、その部屋に物が溢れるのも時間の問題だった。二ヶ月も経たない内に八畳の部屋には様々な画材が置かれ、所狭しと並べられるようになり、狭い部屋が更に狭くなっていく。更に城之内は油絵を好んで描く為、その部屋はあっという間に油絵の具やベンジンなどの独特な臭いに占有される事になった。
 だがオレは、その臭いが嫌いでは無かった。むしろ好ましくさえ思っている。

「はい、じゃぁあっち向いて」

 今日も狭い八畳間に、城之内の声が響く。オレはその言葉に従って、首を少し傾けるポーズを取った。
 休日や時間がある時等はその部屋を訪ねて、二つあるパイプ椅子の一つに座ってただじっとしている事がオレの役目だった。そしてそんなオレを、城之内はいつものようにデッサンをする。
 素人目から見ても、城之内の絵は格段に上手くなった。高校の時と違って片手間では無く、あくまで専門的な事を集中して学んでいるせいだとは思うが、それにしたって上達が早過ぎるような気がする。
 こういう部分を見ると、やっぱりコイツには才能があったのだと思わずにはいられない。

「………」

 首を傾けた先に、描きかけの油彩画がイーゼルに立てかけて置いてあった。あのイーゼルや油絵の具のセットは、城之内が卒業祝いとして童実野高校の美術教師から譲り受けた物だ。それを使って、城之内は日々絵を描いている。課題も、個人的な絵も、全てあのセットで描いていた。
 他の画材は全部バイト代で稼いだお金で買ったり、もう画材を使わない学校の先輩や同級生達から安く譲り受けたりしているらしい。昼間は学校に行き絵の勉強をして、夜はバイトに精を出す。オレが尋ねる予定の無い休日も、全てバイトで埋まっていた。
 忙しくて全く気の休まらない毎日。だが城之内は、その生活を心から楽しんでいた。充実感があるのだと言う。
 一度だけ「後悔していないのか?」と尋ねた事がある。食うのにも困る生活。食費に回さなければならない金も、城之内が画材代に回していた事を知っていたのだ。苦しくない筈が無い。
 だがオレのそんな質問にも、城之内は直ぐさま首を横に振って応えてみせた。

「生活は大変だけど、オレは今凄く毎日が楽しいんだ。後悔なんかする筈が無い」

 少し痩せた頬。けれど満面の笑顔でそう言われれば、こちらとしてももう何も言う事は出来ない。
 それ以来オレは、城之内の生活の事に関して口を出す事を止めた。

 こうして最初の一年は無我夢中で過ごしていた城之内も、二年目となると流石に落ち着いてくる。油彩画を描く時やオレのデッサンをする時も、そのポーズが決まっているのだ。

「もう立派な絵描きだな、城之内」
「そう? オレはまだまだ勉強中の身なんだけどな」

 心から感心しながらそう言えば、城之内はシャリシャリと鉛筆を動かしながら何事も無いように答えた。
 季節は夏。この小さな部屋には冷房は無く、古い型の扇風機だけがブーンという音を起てて回っている。風はなるべくオレに当たるように調節され、自分はTシャツを汗びっしょりにしながら無心でデッサンをしていた。
 時折窓から入って来る生温い風が気持ちいい。近くの公園で遊ぶ子供達の声と、裏の雑木林から聞こえて来る蝉の鳴き声。時折目の前の道路を横切るスクーターのエンジン音と、どこかの家の軒先に吊されている風鈴の澄んだ音。
 ずっと遠くから聞こえて来る様々な音と生温い空気に、ついウトウトと眠くなってしまい、カクリと首を項垂れてしまった。慌てて姿勢を正すと、背後でクスクスと笑われて恥ずかしくなる。

「ちょっと、休憩しようか」

 そう言ってスケッチブックを閉じながら笑う城之内に、オレもコクリと頷いた。



 冷蔵庫の中に入っていた冷たい缶コーヒーを手渡され、プルトップを上げて中の冷たい液体を一口飲んだ。身体の中が一気に冷えていく感覚に、ホッと一息吐く。そして机の上に放られていたスケッチブックに手を伸ばしてみた。
 パラリと中を開いて見ると、繊細なタッチで描かれた様々なオレの姿が目に入ってくる。高校時代とはタッチが全然違う。これはまさに『絵描き』としてのデッサンだった。

「何か気に入ったのあった?」

 汗でビッショリ濡れたTシャツが気持ち悪かったのだろう。軽くシャワーを浴びて新しい黒のタンクトップに着替えてきた城之内は、オレに近付きながらそんな事を言う。

「気に入ったのあったらあげるよ」
「こんな物を貰ってどうする」
「額縁に入れて飾っておけば?」
「自分がデッサンされた姿をわざわざ飾っておくほど、オレはうぬぼれてはいない」

 まるで中身には全く興味が無いようにスケッチブックを閉じながらそう口にすると、城之内は「そりゃそうだ」と言いながらケラケラと面白そうに笑っていた。
 城之内にはそう言ったが、オレは実はその全ての絵を心から気に入っていたのだ。本当なら、貰えるものなら全ページ貰いたいくらいだ。別に描かれた自分の姿に陶酔している訳じゃ無い。流石のオレだってそこまで自意識過剰ではない。ただ純粋に城之内の絵が好きだと思っていただけだ。
 美しいタッチだった。まるで流れるような線で描かれたオレの姿。出来る事ならもっともっと描いて欲しいと感じさせる…そんな絵だった。
 そう…。出来る事ならこんなデッサンでは無く、あのイーゼルに置かれるキャンパスの上の…油彩画で。

「なぁ、海馬。一つ相談があるんだ」

 下らない…。まるで馬鹿な妄想だ…と、自分の頭に浮かんだ光景を否定した時だった。目の前の城之内が真剣な瞳でオレを見詰め、言葉を放つ。

「絵の…モデルになって欲しいんだ」
「モデル? モデルならいつでもなってやっているじゃないか。今だって…」
「違う違う。デッサンのモデルじゃ無くて、オレが言っているのは油彩画の人物モデルだ」

 まるでオレの頭の中を城之内に覗き見られたように感じる一言だった。
 オレが驚きに目を瞠っていると、続けて城之内が話を続けてくる。

「専門学校は二年で卒業なんだよ。だからオレもそろそろ卒業制作に取り掛からなきゃならない。実はその卒業制作に、人物が入っている油彩画を描きたいと思っているんだ。そのモデルに、オレはお前を起用したい。ダメか?」

 一言一言、まるでオレに言い聞かせるように放たれる言葉は夢物語のようだった。全く現実味が無い。だが、じっと見詰めて来る城之内の琥珀の瞳が、決して嘘を言っている訳では無い事だけは確かだとオレに教えていた。

「卒業制作は…得意の風景画を描くんじゃなかったのか?」

 何故か心臓がドキドキする。ただのモデルの筈なのに、本当に城之内が言い出したい事が分かるようだった。

「普段から得意としている物を描いたって、卒業制作としてはイマイチなんだよ。苦手な物を取り入れてこその卒業制作だと思わないか?」
「それは…そうだが…。だが、一体どんな絵を?」
「………」

 オレの質問に、城之内は一瞬黙り込んだ。部屋の中はシンと静まり返り、外から入ってくる遠い音だけが響き渡る。生温い風が吹き抜けて、オレと城之内の髪を揺らし、やがて城之内は小さく嘆息してから再び口を開いた。

「ヌードだ」
「え………?」
「お前にヌードモデルをやって欲しい」

 知っている筈の単語が、オレの中で認識されない。
 今度こそまるで本当の夢物語の様に、その単語はオレの耳に入ってきて通り抜けていった。