*漂う青き水の底で君を想う(完結) - 額縁 - 一枚目

 初めて城之内のその姿を見た時、余りに場違いな光景に何も言えなくなった。

 誰も居ない学校の屋上。どこまでも遠く澄み渡った秋空の下、少し冷たい風に吹かれて、城之内は空を見上げて立っていた。目の前にはキャンバスが置かれているイーゼル。左手には油絵の具が載ったパレットを持ち、右手には絵筆が握られている。
 秋の風に漂ってくる油絵の具の独特な匂いが、非現実的なその光景を現実だとオレに知らしめていた…。



 アメリカでの『世界海馬ランド計画』の基盤を固め、オレが日本に戻ってきたのは、休学してから三ヶ月後の事だった。事情が事情故に教師陣は何とか出席日数不足を補習等で補ってくれて、このまま真面目に学校に通えばオレはそのまま進級する事が出来ると伝えられた。いくら仕事の方が大事とは言え、流石に留年はしたくなかったので、オレはそれからは暇を見付けては真面目に登校するようになっていた。
 こうして三ヶ月前と同じような生活が再び始まった訳なのだが、何故だが居心地の悪さを感じてならない。最初はその原因に全く気付かなかった。だが暫く経ってから、漸く三ヶ月前との大きな違いに気付く事が出来た。
 三ヶ月前は日常的に行なわれていた光景。そして今は全く行なわれなくなった光景。それは城之内がオレに絡んでこなくなった事だった。

「………?」

 この三ヶ月の間に、城之内は随分変わってしまっていた。
 以前は授業中であろうが休み時間であろうが関係無く机に突っ伏して眠っていたというのに、今現在は結構真面目に授業を聞いてノートを取っていたりするのだ。オレの知らない間に頭でも打ったのかと心配したが、たまに授業をサボってどこかに行くのは変わらなかったので、結局はその程度かと余り気に止めなかった。


 ある日の事…。
 その日も城之内は四時限目の授業をサボってどこかに行ってしまったので、いつもの事かと呆れていたのだが、授業が始まってすぐに突然掛かって来た電話にオレも教室を出なくてはならない自体に陥った。
 胸ポケットから携帯電話を取り出しながら教室を出て、廊下で部下に簡単な指示を与える。通話を終えて携帯電話のフリップを閉じ、オレは溜息を吐きながら周りを見渡した。
 誰もいない静かな廊下。どこの教室も授業中故に、教師が喋っている声が微かに響いてくるだけだった。
 アメリカから帰って来て、出席不足を補う為に無理をしながら仕事と学校を両立する生活に、流石のオレも少し疲れていた頃だった。今から教室に戻って授業を受けるのも馬鹿らしくなって、たまには良いかとオレは足先を階段へと向ける。
 窓から見えた空は青空だった。今から屋上に行けばきっと気持ちが良いだろう。とにかく今は、仕事の事も学校の事も考えたくない。ただ、静かに休みたい。
 そう願いながら階段を上がりきって屋上に繋がる重い扉を開いた時に、その光景は目に入って来たのだった。


「貴様…。何をしている?」

 思わず零れたオレの言葉に、城之内は振り返ってニッコリと笑った。そしてただ簡潔に「絵を描いてる」とだけ答えた。
 未だ授業中なのにも関わらず、オレが屋上に現れた事に関して、城之内が何かを尋ねて来る事は無かった。普段からサボリ慣れている奴にとっては、別に大した事では無かったらしい。

「絵を描いているのは見れば分かる。何故貴様がそんな事をしているのか聞いているのだ」

 再びオレに背を向けてキャンバスに向き直ってしまった城之内に少し苛つきながらそう尋ねれば、城之内はクスリと笑って肩を竦めてみせた。そして筆を動かしながら「そんなにオレが絵を描いているのが不思議?」と聞き返してくる。「あぁ」と答えれば、城之内は忙しなく筆を動かしながら、可笑しそうに笑っていた。

「そうだよなー。似合わないよな」
「やはりどこか頭を打っていたのか」
「何それ? 別にどこも怪我してないけど?」
「厭味も通じなくなったのか…」

 はぁ~っと呆れたように大きく嘆息してみせても、城之内は以前のように突っかかって来ない。三ヶ月前だったら絶対反論してきただろうに、今の城之内はただ穏やかに笑っているだけだ。ペタペタとキャンバスに絵の具を載せながら、城之内はのんびりした声でオレに向かって話しかけて来た。

「お前がアメリカに行ってすぐだったかな。美術で風景画を描く授業があったんだよ。油彩じゃなくて水彩画だったけど、どこでも好きな場所をって課題だったから、オレは自分が一番好きなこの屋上からの風景を描いて提出したんだ」

 鼻歌交じりでパレットの絵の具を混ぜながら、城之内は上機嫌で絵を描いている。こちらからは奴の背中しか見えないが、城之内が心から楽しんでいるのが伝わって来た。

「そしたら先生がすっげー褒めてくれてさ。『基礎がなってないから上手くは無いが、お前は絵の才能があるぞ』なーんて褒めてんだか貶してんだか分からない感想をくれて、『どうせお前は授業をサボるんだから、せっかくだからその間に絵でも描いてろ』って、でっかいスケッチブックとクロッキーと練り消しをくれたんだ」

 混ぜていた絵の具の色に満足したのだろう。城之内は新しい色を筆にたっぷりとつけ、キャンバスに載せながら話を続ける。

「とりあえず言われた通りにクロッキー使ってさ、空いてる時間に好きな風景画をごっそり描いてスケッチブックを埋めたんだ。そしたら先生がまた褒めてくれて、今度は水彩で良いから色を付けろと言うんだ。新しいスケッチブックも貰ったから、それも水彩画で埋めちまった。先生はそれも褒めてくれて、今度は自分の油彩セットを貸してくれたんだ。それがこの油絵の具とかパレットとかイーゼルとかなんだけど。それがまぁ…半月位前かな?」

 フンフンと如何にも楽しそうに、城之内は絵を描いていく。その作業を自分の言葉で邪魔するのは憚られて、オレはそのまま黙って絵を描く城之内の姿を見詰めていた。
 オレが完全に黙ってしまっても、城之内は全く気にも止めない。けれど暫くして、突然筆を休めてこちらに振り返った。そしてその顔を見て、オレは驚きに目を瞠る。
 そこにいたのはオレの知らない城之内だった。三ヶ月前には毎日のように見ていた、まだ無邪気な子供のような顔では無い。自分の生き方を見定めた、精悍な男らしい顔付きに変わっていた。
 瞳に宿る光が違う。オレはその光をよく知っていた。何故ならばそれは…『世界海馬ランド計画』を遂行しようと決意した時に自分の瞳に宿っていた光と全く同じだったからだ。

「高校卒業するまでまだ一年半あるけどさ…。オレ、卒業したら美術系の学校に通おうと思ってるんだ」

 涼やかな秋の空気の中で、その声は凛としてオレの耳に届く。

「金は無いから、昼間働きながら夜間で勉強する。本当は美大に行きたいけど、大学行くには今から勉強したって間に合わないしな。だから専門学校に通うつもりだ。その為の貯金ももう始めてるし、奨学金制度も利用するつもりでいる。今の家にいたら勉強なんて出来ないだろうから、家も出るつもりでいるしな」
「美術系は…金が掛かるぞ。分かっているのか」

 城之内の家が裕福では無い事を知っていた為、念の為そう聞いてみる。だがオレのその質問に関しても、城之内は顔色一つ変えずにコクリと頷いた。

「知ってる。だから頑張って貯金してる」
「無事に学校には入れても、そこから先が大変だぞ。一人暮らしもするんだろう? 楽な生活なんて出来る筈が無い」
「楽に暮らそうなんて思って無い。貧乏だって慣れっこだ」
「何もそこまで無理して苦難の道を選ばなくても良いのでは無いか? 世の中にはもっと賢い生き方というものが…」
「それをお前が言うのか?」

 ほんの少しだけ眉根を寄せて、困ったように笑う城之内の顔にオレは何も言えなくなってしまった。
 そうだ…。オレは知っている筈だ。目の前に広がる道がどれだけ困難でも、自分の信じた夢の道を進む事がどんなに大事な事なのか…。オレが一番良く知っている筈だったのに!
 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにオレを見詰めてくる城之内に、オレはそれ以上の言葉を紡げ無かった。その代わり、城之内の身体越しにチラリと見えたキャンバスの絵に、吸い寄せられるように近付いて行く。キャンバスの目の前に立ってじっと絵を見詰めるオレに、城之内は何も言わずに一歩足を引いて絵を見せてくれた。

「………」

 未完成の風景画。だが、その空の色にただただ感嘆した。青い青いどこまでも青い空が、キャンバス一面に広がっている。まだ塗りかけのその空が、オレの目には本当に美しく映った。絵の具で塗られたその空が『本物』だと思う程に。
 だからつい、城之内の可能性をもっと引き出してやりたくなったのだ。

「学校は昼間に行け」
「え?」
「学生ローンを組めばいい」
「簡単に言うけどなぁ…。お前と違ってオレには頼れる保証人がいないんだ」
「保証人にはオレがなる」
「はぁ?」

 まだ未完成の青い空。けれどオレはその空を…城之内が描く絵をもっと見たいと思っていた。

「オレの社会的地位を知らぬ訳ではあるまい」
「そりゃ知ってるけど…。オレはお前に金を借りるなんて嫌なんだけどな」
「何を勘違いしている。オレは金は一銭も貸さないし、勿論恵んでやる事もしない。学生ローンの返済は勿論お前自身がやる事だし、もし仮にオレが金を貸す事があったとしてもキチンと返して貰う。ただローンを組むのにはどうしても保証人がいるし、お前自身の力ではどうにもならない事を手助けしてやる事は出来る」

 矢継ぎ早に繰り出すオレの言葉に、城之内はポカンとした表情をしていた。オレが突然城之内に協力するような事を言っているのが信じられないのだろう。当たり前だ。オレだって自分の気持ちの変化が信じられない。
 だがオレがそうするだけの…、城之内の進路を応援したいだけの力が、あの空の絵にはあったのだ。

「何なら、一人暮らしをする時に借りる部屋の保証人にもなってやる。せっかく美術の教師に褒められた絵の才能だ。そのまま伸ばすが良い」
「ちょっ…! お前…一体何が目的なんだ?」

 訝しげにオレを覗き見る城之内に、オレは鼻で笑ってみせる。オレにさえ分かりかねている感情を答えられる筈が無い。

「目的か…。そうだな、強いて言えばもっとお前の描く絵が見たいのかもな」
「オレの絵を?」
「そうだ。その為にオレは保証人になってやろう。その代わり一つ条件がある」
「条件?」
「あぁ。呑めるか?」
「呑めるものであれば…な」
「条件は、この先も貴様が描いた絵をオレに見せる事だ」
「へ? それだけ?」
「それだけだ。どうだ?」

 オレの問い掛けに城之内は暫し「う~ん…」と悩み、ややあって答えを返してきた。

「分かった。それでオレに絵の勉強をさせて貰えるのならば…それでいい。ありがたく好意に甘えることにするよ」



 こうしてオレは城之内に協力し、城之内は絵の道へ進む事になった。城之内が描いたたった一枚の…未完成の空の絵が、オレ達の関係をガラリと変えてしまったのだ。
 そしてこれがオレ達が踏み出した最初の一歩になるなんて…その時は考えもしなかったのだ。