黒龍神よ…。
私はただあの二人に幸せになって貰いたかっただけなのです。こんな結末を望んでいた訳では無かったのです。
だけれども…今回の事で私も漸く悟りました。
私は今までただの傍観者として、全ての事をずっと救いの巫女一人に背負わせて来ました。
そうする事が当然だと思っていたのです。
でも、そうではなかったのですね。私もこの世界の住人の一人として、覚悟を決めなければならなかったんですね…。
その事が…今になって漸く…分かりました。気付くのが遅過ぎたのかもしれません…。
それでも黒龍神よ…。そんな私でも、今から出来る事はあるでしょうか?
ただの思念体の私でも…彼等の為に役立つ事が出来るでしょうか?
もう何も…後悔したく無いのです。どうか私にも闘わせて下さい。
彼等の…克也と瀬人の為に。
黒炎刀に貫かれた時…海馬は全く痛いとは感じなかった。ただ熱いと…ヒヤリとした熱が背中から胸を通り過ぎていったように感じた。
これで城之内共々小さな石ころになる。本当は…城之内と共に生きる事が望みであった。けれどそれが無理だと分かった時、それならばせめて最後まで彼の側にいようと思ったのだ。もうこれ以上城之内を一人にしない為に…石になって終生を共にする為に。
共に生きる道を選べなかった事はとても悲しい。けれど海馬は自らの選択を全く後悔していなかった。城之内を失った後、一人取り残されて生きるよりずっとマシだと思ったのである。
それなのに…何故自分は生きているのだろうか…?
最初、自分は既に死後の世界にいるのかと思った。そんな風に誤認してしまうくらいに、その世界は白かったのだ。
漂う意識を引き戻され、初めは曖昧だった四肢の感覚が少しずつクリアになっていく。浮上する意識に逆らわずにその瞳を開ければ、ただただ真っ白い世界が目に入ってきた。
「………?」
全く意味が分からなかった。自分は城之内によって黒炎刀に貫かれた筈だった。背中から…胸にかけて、城之内と共に。重なった身体は一本の刀によって串刺しになり、二人はそのまま死んで石ころになった筈だったのに…。
不可解な現象に首を捻りながら、無意識に胸に手を置いた。そこは刀が通った筈の場所。本来だったら刀傷がある筈だった。それなのに…ちっとも痛く無いのだ。それどころかどんなに探っても傷一つ無く、貫かれた痕すら見当たらない。だが…。
「確かに…刺された筈…」
その場所を探る度にぬるりとした血で指が汚れ、着ていた白い着物も流血で真っ赤に染まっている。そう…確かに海馬は黒炎刀によって身体を貫かれていた。それなのに傷がない、痛みも無い。
訝しげな現象に眉を顰めた時、自分の背後で人の気配がするのに気付いた。上半身を起き上がらせて慌てて振り返れば、そこに二人の人物がいる事に気付く。
一人は白い世界に横たわっている城之内の姿。白い着物に青い袴の神官着を着ていて、上半身の着物を海馬と同じように血で真っ赤に染め上げている事から、あの瞬間が夢では無かった事が分かる。そしてもう一人は、意識を失った城之内の側に屈み込み、彼の胸に掌を当てている男の姿だった。真っ白い着物を着たその後ろ姿に、海馬は見覚えがあった。それは…。
「せと………?」
この三年間、ずっと海馬の側に寄り添い、何かと助けてくれたあのせとがそこにいた。此方に背を向けている為表情は分からないが、何故だか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。そして海馬はもう一つ、せとがいつもと全く様子が違う事に気が付いた。
せとは…実体化していたのである。いつもの半透明とは全く違うクリアな姿。確かな質量を持って彼はそこにいた。
「せ…と…? お前…」
震える声で呼びかけると、せとはピクリと反応した。そして城之内の胸から掌を持ち上げると、ふぅ…と深く嘆息する。血で汚れた着物の袷を綺麗に直して、そしてせとはスッと立ち上がり…振り返った。
その顔を見て、海馬は驚きに目を瞠った。いつも穏やかな笑みを称えていた彼の顔は、何故だか酷く無表情だった。そして何の感情も見せないままスタスタと海馬の目の前まで歩いて来て、その場にしゃがみ込んだ。
「せ…と…。っ…!!」
顔を覗き込むせとに視線を合わせ、恐る恐る彼の名を呼んだ時だった。パシンッと乾いた音が耳のすぐ側で鳴り響き、次いで自分の左頬がカーッと熱くなっていくのを感じた。衝撃に揺らいだ視界に、海馬は自分がせとに平手打ちをされたのだという事を知る。
ジンジンと痛む頬に手を当ててゆっくりと視線を戻せば、今度はギュッと強く抱き締められた。温かい…血の通った確かな身体。この三年間、一度も触れ合える事の無かった感触が、今そこにある。その事実を俄には信じられなくてただ呆然としていると、海馬の視界の先に花びらが一枚落ちてきた。それは薄いピンク色の桜の花びらだった。何故こんなものが落ちてくるのかと思いせとの肩越しに視界を巡らせてみて…目に入ってきた余りの光景に海馬は声もなく驚いた。
「っ………!?」
桜の花びらだけではない。あのマヨイガに咲いていた数々の花々が全て散って、その花びらを辺りに漂わせていたのだ。赤、青、黄色、紫、ピンク、オレンジ、白…ありとあらゆる色が風に乗って舞っている。色の無い白い世界で、そこだけが鮮やかだった。
「馬鹿な…事を…」
今自分が見ている光景が信じられなくて呆然としていると、耳元でせとが小さく呟いている事に気付いた。その声は…酷く震えている。
「何故死を選んだ…。何故克也の言葉に耳を傾けたりしてしまったのだ。何があってもお前だけは生きる事を諦めてはいけないのに…。克也が持っている黒炎刀を奪い取ってでも、生きる選択をしなければならなかったのに…っ!」
怒りと…そして哀しみで震える声に、海馬は漸く我を取り戻した。そっと身体を動かして、せとの腕の中から身を起こす。そして…初めてせとの顔をまともに見た。
せとは…泣いていた。酷く悔しそうに下唇を噛み締めながら、静かにハラハラと泣いていた。
「お前達は…本当に馬鹿な事をしたのだ。少しは反省しろ」
「………すま…ない…」
「私が黒龍神に願い出なかったら、お前達はあのまま死んでいたのだぞ」
「それでは…お前が救ってくれたのか?」
「当たり前だ。他に誰がいるというのだ」
そう言ってせとは、流れ出る涙を袖口でぐいっと拭って立ち上がった。ザァッと風が吹き、様々な色の花びらがせとと海馬の間を通り抜けて行く。風にはためく彼の白い着物の裾が、せとがいつもとは違って実体化している事を知らしめていた。
それを信じられないような目線で見上げていると、海馬の視線に気付いたせとが視線を下げて見下ろしてくる。そして何度か瞬きをして口を開いた。
「いつか…私が話して実際に見せてやった奇跡の事を…覚えているか? この贖罪の神域特有の…奇跡を起こす力の事を」
静かに深く通るその声に、海馬はコクリと頷いた。そしてそれと同時に、この白い世界が贖罪の神域だという事を知って酷く驚いてしまう。どこを見渡しても真っ白なその世界は、海馬が知っている贖罪の神域とは全く違っていたからだ。
四季の花咲くマヨイガも、朱塗りの大鳥居も、荘厳な黒龍神社の本殿も、今ここには何一つ残っていない。見えるのはどこまでも続く白と、様々な色の花吹雪だけだった。
「私はあの時、お前の前で花を咲かす奇跡を見せてやった。今回はその力を逆に使ったのだ。お前達二人を助ける為に、黒龍神に必死に頼んで奇跡の力を最大限に使わせて貰ったのだよ」
「奇跡の力を…逆に?」
「そう…。普段は放出する力を…逆に取り込んだのだ」
そう言ってせとは手を上に掲げた。目にも眩しい白い腕に、色鮮やかな花吹雪が絡まって離れて行く。
「贖罪の神域を形成していた全ての奇跡の力を取り込んで、私は実体化した。その結果、あの世界は形を保つ事が出来なくなってこのような姿になってしまったがな…」
せとの言葉を聞き、海馬は改めて周りを見渡して見た。相変わらずどこもかしこも白いその世界は、せとが言うにはあの贖罪の神域だったそうだが…。それが全く信じられない程、何の痕跡も残されていない。
余りの事実に絶句している海馬の元にせとはもう一度しゃがみ込み、そして今度は手を伸ばして海馬の胸元に触れてきた。傷のあった辺りを優しく撫で擦る。
「傷…残ってないだろう」
「あ…あぁ…」
「もう痛くはないな?」
その質問に頷く事で答えると、せとは漸く安心したように柔らかな微笑みを浮かべた。
「実体化し…全ての奇跡の力をこの身に取り込んでから…今度はお前達を救う為に奇跡の力を放出したのだ。怪我が治っているのはそのせいなのだよ」
「克也も…同じように?」
「そうだ。つい先程まで治していたが傷は綺麗に塞がった。もう大丈夫だ」
満足そうなせとの笑みを見ながら、海馬はそろりと向こうに倒れている城之内に目を向けた。海馬の視線を追ってせとの目線も城之内へと向かう。城之内はまだ意識を失ったままだった。だが傷が治ったからにはもうすぐ目を覚ますだろう。
よく見ると…城之内の身体の傍らに、黒炎刀が転がっているのが見えた。鞘には入っておらず、血に濡れた銀色の刀身が生々しく目に映る。
「っ………」
口内に溜る唾をゴクリと飲み込んで、海馬はそれから視線を外した。あの時は感じられなかった痛みが戻ってくるような気がしたのである。
目を伏せて顔色を悪くする海馬に、せとは何も言わなかった。ただその場で立ち上がって静かに海馬の事を見下ろしている。じっと見られている感覚に海馬が顔を上げれば、自分と同じ澄んだ青色を称えた瞳と視線がかち合った。
「さて…救いの巫女よ。今度はどうする?」
暫く黙って見つめ合った後、せとは唐突に言葉を放った。言われた意味が分からなくて首を捻れば、せとはクスリと笑って振り返り城之内の方に視線を向ける。その後を追って海馬も向こうを見てみれば、丁度今まで気を失っていた城之内が目覚めたところだった。海馬と同じように自分の身に起こった事が理解出来ないのであろう。上半身を起こしながら不可思議な顔で自分の胸元を見詰め、傷痕を手で確かめている。
やがて…こちらの気配に気付いたのか、城之内が視線を上げた。その途端、琥珀の瞳が驚きで大きく見開かれる。
「っ………!? せ…と…っ!?」
余りの驚愕に身動きすらならない城之内の側に、せとは微笑みを称えたまま近付いていった。そして転がっていた黒炎刀を拾い上げ、更に側に落ちていた鞘に刀身を収めて城之内に差し出す。驚き過ぎて刀を受け取る手が出せない城之内に焦る事無く、せとはそのままの姿勢で低い声を出した。
「おはよう。漸く起きたか馬鹿者が」
言われた事が全く理解出来ない様相を見せながら、城之内は大きく見開かれた琥珀の瞳で何度も瞬きする。
「悲劇に浸り自殺してみた気分はどうだ? 海馬瀬人を解放しようとした事だけは褒めてやるが、結局道連れにしているのでは全く意味が無いではないか、この愚か者」
「せ…と…。お前…せと…か…?」
「あぁ…そうか。そうだったな」
震えながらせとの名を口にする城之内に、せとは大きく溜息を吐く。そしてきつい目付きで城之内を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「『初めまして』…克也。私の名前はせと。千年前…お前が九十九人の村人と自分の恋人を殺し、食人鬼になって贖罪の神域に閉じ込められた時。お前の事を心配しながら転生していった『せと』が残した思念体だ」
「思念体…? せとでは…ないのか…?」
「残念ながら私は、今貴様が思い描いている『せと』では無い。魂を持たぬ意識の固まり…それが私の正体だ」
相変わらず差し出された黒炎刀を受け取ろうとせず、城之内はただ呆然とせとを見上げていた。そんな城之内に対して、せとの視線はどこまでも冷たい。いつも心から城之内の事を愛しく思い、穏やかに彼の事を見守っていた瞳は今はどこにも見当たらない。
そんなせとの事を、海馬は酷く困惑した気持ちで見詰めていた。
どうして…どうしてそんな目をして克也を見るんだ。
あんなに大事に想っていたじゃないか。あんなに心配していたじゃないか。あんなに…愛していたじゃないか…。それなのに…どうしてそんな目をしているんだ…っ!!
海馬にはせとの思惑が全く読めなかった。ただ、彼が酷く怒っている事だけは感じていたが。
困惑する海馬と城之内を他所に、せとはどこまでも冷静だった。相変わらず低く唸るような声で冷たく言葉を放つ。
「自ら死を選んだ愚か者に、一つだけいい事を教えてやろう…。私が生まれたのは千年前。お前がこの贖罪の神域に閉じ込められたあの瞬間から、私もずっと共にここにいたのだよ。お前には姿も見えず声も聞こえずで、私の存在を感じ取る事は出来なかったようだがな」
「なっ…!? ずっと…? まさかずっと贖罪の神域にいたとでもいうのか…っ?」
「あぁ、そうだ。私はずっとここにいた。千年という長い刻を…お前と共に過ごしてきた」
「な…ん…で…」
「さて、克也。そこで本題に入るのだが…。実は私もつい先程、黒龍神に『要石』の事を聞いたのだ。まぁ…事の顛末を聞くついでだったのだが」
「え………?」
「確か『要石』には『贖罪の神域に千年近く存在した者』がなれるらしいな。その条件だけでいいのだったら、この私だって『要石』になれるという事だ」
そう言ってせとは、持っていた黒炎刀の鞘を華麗に抜き去った。そして未だ血に塗れたままの銀色の刀身を翻し、切っ先を城之内の鼻先に向ける。
「さて、選択の時だ…克也」
「せ…と…? 何…を…」
冷や汗を流しながら焦りの色を見せる城之内に、せとはニヤリと笑いかける。城之内を見下ろすその青い瞳に一切の曇りは無く、また胸に秘めた決意に関しても少しも揺らがない事が、遠くから見ている海馬にもよく分かった。
キラリキラリと黒炎刀の刀身を光に煌めかせながら、せとは落ち着いた声で無情に言い放つ。
「何…簡単な事だよ。もう一度『自分』を殺し、悲劇の主人公として美しく物語の幕を降ろすか。それとも、もう一度『せと』を殺して海馬瀬人と共に無様に生きてみるか…。二つに一つの選択だ」
「なっ………!?」
「どうせどちらも『一度』殺しているのだ。二度目も大した事は無いだろう? さぁ…再選択の権利を黒龍神がせっかく与えてくれたのだ。よく考えて選択せよ」
驚きに目を瞠る城之内に、せとは少しも表情を緩めない。ただ…約三年間ずっと寄り添って生きて来た海馬には、せとの本意が見えてきていた。心に迫ってくる彼の真意に、海馬は知らず涙を流す。
せと…。お前は…それ程までに…オレ達を救いたいのか…。
それ程までに…想っていてくれたのか…。
せとの強い決意と、それに対して揺らいでしまった自らの決意。海馬は余りに自分が情けなくなり、そしてせとの本当の強さと優しさを知って、涙を留める事が出来なかった…。