雪は憂鬱になるから、そんなに好きでは無い。
幼い頃は大好きだった。天気予報で「積もる」と言われば、モクバと二人で手を取り合って喜んだものだった。
施設の狭い部屋の中。明日の朝になったら一面の銀世界になっていると大人達に言われ、ワクワクしながらベッドに入って目を瞑る。けれど、暫くしてモクバの規則正しい寝息が聞こえてきても、オレは一向に眠れずにいた。雪が楽しみ過ぎて、目が冴えてしまっていたのだ。
身体の芯まで冷たくなるような空気の中。上着を羽織ってオレはベッドから抜け出て、窓に近寄ってそっとカーテンを開いてみる。
雪は既に降っていた。音もなく静かに、シンシンと。
真っ暗な夜空から白い固まりがフワフワと落ちてきて、それが施設の園庭に次々と積もっていく。まるで舞台照明のように照らされた街灯の光の中でだけ、雪が降ってくる様がはっきりと見えた。
それは本当に美しい光景だった。美しくて至極幻想的な感じさえした。
オレは結局夜中までベッドに戻る事は無く、冷え切った身体を掌で撫で擦りながら、いつまでもそんな美しい光景に目を奪われていた…。
そんな風に雪が積もった日は朝から雪遊びをして、モクバや施設の他の子供達と一緒にはしゃぎつつ遊んでいたものだが…。
だが、大人になるとそんな事も言っていられない。
この軟弱な都会は雪が降るとすぐに交通網が乱れ、物流までもがストップしてしまう。社長として社員の身の安全も心に留めておかなければならない身としては、こんな日にいつまでも残業させる訳にもいかなくて。バスや電車が完全に運休する前に、自宅に帰してやらなければならないのだ。
更に物流がストップしているという事は、今日やるべき仕事が後日に回ってしまうという事にもなる訳であるから、その事に対しても頭の痛い事態となる。
やるべき事は山のようにある。もう子供の頃のように、無邪気には喜べない。
それが何より憂鬱になるから、雪は余り好きでは無かった。
窓の外では、夕刻から降り始めた雪がシンシンと地面に積もり始めている。時計を見れば午後の八時。モクバも含め他の社員は社長命令で定時で上がらせているから、残っているのは家が会社から近い少数の社員と、あとはオレとSPくらいなものだろう。
電車やバスはまだ動いているようだから、帰るなら今の内かもしれない。オレはどうせリムジンで帰るから電車は使わないのだが、鉄道が完全に止まってしまえば必然的に道路が混む事になる。そうなるとこちらの帰宅時間も遅れてしまう事になるから、余り遅くまで残って居るのは得策とは言えなかった。
本当はもう少し仕事をしていたかったのだが、仕方無くPCの電源を落とし、オレは帰る準備をする為に立ち上がった。その途端、内線が掛かってきた音を聞いて、身体の動きを止めてしまう。
やれやれ…。人がせっかく帰ろうとしている時に…と溜息を吐きながらも、おれは机の上の電話に手を伸ばした。そして受話器を手に取り耳に当てる。「オレだ。どうした」と問い掛ければ、比較的近場に住んでいる為まだ会社に残っていた秘書が軽やかな声でこう伝えて来た。
『社長。城之内様からお電話が来ております』
城之内。その単語を聞いた瞬間、心臓がドキリと高鳴った。思わず受話器を取り落としそうになって、震える手で慌ててギュッと握りしめる。
城之内からの電話など、実に何日ぶりだろうか。『お繋ぎしますか?』との秘書の声に「あぁ、頼む」と即答し、オレは机に寄りかかりながら前髪を掻き上げた。
「オレ、このままじゃダメなんだよ。お前につり合う男になる為に、ちょっと旅してくる。だから帰ってくるまで待ってて?」
オレの恋人であった城之内がこう言って童実野町を出ていったのは、今から約三年前、童実野高校の卒業式の翌日の事だった。
はっきり言ってオレは城之内の言っている事が何一つ理解出来なかった。
オレにつり合うとは一体どういう事なのか…とか、オレにつり合う為に何故わざわざ旅に出なくてはならないのか…とか、聞きたい事は山程あったが、それを尋ねるのも面倒臭くて結局城之内のやりたいようにさせる事にしたのである。
どうせ凡骨の事だろうから一~二週間もすれば帰ってくるだろうと高を括って待っていたのだが、城之内は意外にしぶとく…そして頑固だった。
一ヶ月経っても二ヶ月経っても帰って来ない。向こうからは時々電話連絡が入るし、たまに現地で買ったであろう絵葉書が届いたりする事もあったが、城之内は決して帰って来ようとはしなかった。
理由を聞けば「まだまだつり合って無いんだ」と言うばかりで、こっちの話を聞こうともしない。いい加減諦めて帰って来いと促そうにも、城之内は携帯電話を持っていないので、こちらからのコンタクトは一切出来ない状況だ。
それでも最初はしょっちゅう連絡が来ていたから良い方だった。二、三日に一回は電話連絡があり、二週間に一回は絵葉書が届く。けれどそれが間延びしていくのは、あっという間の出来事だった。
今では電話連絡なんて二、三ヶ月に一回あれば良い方だし、絵葉書なんて半年に一回だ。
最初は国内を点々と移動しているだけだと思っていた。なのに、いつからか外国で買った絵葉書まで届くようになっていた。国際電話は金が掛かる為、そういう時は電話連絡は一切来ない。ただ、安っぽい絵葉書だけがオレに届く。
連絡の無い間は、城之内が一体どこにいるのかなんてさっぱり分からない。国内なのか、それとも国外なのかすら分からないのだ。
オレにつり合う男になる為と勝手に自分で決めて、勝手に旅立ってしまった。大体その理由だって、オレは未だに理解しかねているのだ。
オレがいつお前に「オレにつり合う男になれ」と言った? そんな事言った覚えは無いし、思った事すら無かった。
それを勝手に思い込んで旅立ってしまって、当の恋人は約三年も置いてけぼりにされている。いい加減呆れ果て、捨てられてもおかしくない時間だとオレは思う。
けれど…捨てられないのもまた事実だった。
オレはまだ城之内を待っていたのだ。
三年間も放っておかれながら、それでもまだ待っていた。
城之内の「待ってて」という言葉を裏切れなかったのだ…。
内線が外線に切り替わって、受話器の向こうの音が変わる。風の音と背後で車が走り去る音。どこかの公衆電話からかけてきているようだった。『もしもし?』という脳天気な声が聞こえて、オレは向こうに聞こえるようにわざと大きな溜息を吐いてみせる。
「何だ…。生きていたのか、凡骨」
『ちょっ…? 何その言い方。久しぶりなんだからもっと優しくしてよ』
「放蕩馬鹿の貴様に優しくする道理など無い」
『そんな…、酷いわ海馬君!! せっかく心配してあげたのに!!』
「貴様に心配される事など、何一つ無いわ! そろそろオレの事なんか、もうどうでも良くなって来たのではないか?」
『そんな事ないってばさ。今日そっちは雪なんだろ? 珍しく大雪になりそうだから注意が必要ですって、さっき天気予報で言ってたからさぁ…。心配になって電話かけてみただけなのに』
城之内の台詞から、彼が今日本にいるだろう事が分かった。
だが、それが分かったところでどうしろと言うのだろう。狭い日本とはよく言われるが、それでも端から端まではそれなりに距離はあるのだ。
ましてや今ここにいなければ、例え国内に居ようがその距離は外国にいる時と全く変わらない。意味が無いのだ。
受話器の向こうからは、相変わらず風の音が響いている。たまに背後に走っているであろう車の音が乾いた音では無い事に気付く。バシャバシャと水を弾く音と、チャリチャリと鎖がアスファルトに接触している音が伝わって来ていた。
「雨………?」
思わずそう呟いたら、『いや、雪だよ』とすぐに返事が返ってくる。
『もうね、すっごい雪なんだ。オレなんか埋まっちゃいそうなくらい。お前だったら頭一つ分くらいは出るかもしれねーな』
ケラケラと楽しそうに笑って現状を報告する城之内に、オレは不機嫌具合を隠さずにまた大きく溜息を吐いた。
何がそんなに楽しいのだ。三年もオレと離れているのに。脳天気にも程がある。
この三年間、オレはちっとも楽しくなかった。何をしても心の底から楽しめなかった。お前がいなければ、全ての楽しさは半減してしまうというのに…。
「城之内…」
『ん?』
「楽しそうだな…」
こんな風に嫌みを言ったりしたくなかった。それでも、言わずにはいられなかった。
もう…この脳天気の阿呆に付合う気力は残されていなかった。
「旅は…そんなに楽しいか? オレと一緒にいるよりも楽しいのか?」
受話器の向こうからは、暫く風と雪の音しか聞こえなかった。いや、それだけでは無い。城之内の息遣いが聞こえる。はぁ…と温かい吐息を深く吐き出す音が、オレの耳に届いた。
ややあって、『待つの…辛くなってきた?』という至極真剣な声が響いてくる。
その声だけで城之内の顔が浮かぶ。きっと明るい琥珀の瞳に真剣な光を携えて、両の口角を少しだけ上げて困ったように笑いながらオレの返事を待っているのだろう。
「待つのは…嫌いなんだ。最初から嫌だと思っていた」
『うん…』
「それでも三年待ってやったんだ。いい加減戻って来い…っ! 戻って来ないなら、もうお前の事は忘れる事にする!」
『それは困る! うん、そうだな。そろそろ帰るよ。桜の花が咲く頃には』
「長い!! そんなには待てない!!」
『え? そう? んじゃ梅の花が咲く頃…』
「もういい加減にしろ、城之内!!」
『海馬…泣かないで。ちゃんと帰るからさ…』
城之内の言葉で、オレは自分が泣いている事に初めて気が付いた。頬に涙が幾筋も流れ、視線がぼやけて苛々する。
「いつ帰って来るのだ…っ!」
『だからもうちょっと…かな。年が明けて冬が終わる頃には…』
「遅いと言っているのだ!! もっと早く帰って来い!!」
『えー? えと…じゃぁ…年明けにでも…』
「もう嫌だ! これ以上少しでも待ちたくない!! 今降ってるこの雪が、溶けきる前に戻って来い!!」
『そ、そんな無茶な…っ!!』
「無茶でも何でも無い! オレはこれ以上の譲歩はしないからな…っ!!」
溢れる涙を手で覆うようにして拭って、オレは城之内に怒鳴りつけた。
情けない…。涙が…止まらない。
静かな部屋の中にオレの嗚咽だけが響いていて、受話器の向こうはまた静かになってしまった。
このまま答えが出なければ、すぐにでも電話を切ってやる。そして城之内との関係も綺麗サッパリ終了してやる!!
そう思った時だった。
『帰るよ』
強く耳に押し当てた受話器から、城之内のはっきりした声が響いてきた。
『分かった。帰るよ。今そっちで降ってる雪が溶けきらない内に、絶対そっちに帰る。だからもうそれ以上泣かないでくれ。オレ、お前に泣かれるの弱いって知ってるだろ?』
強くて優しくて、オレの事が大好きな城之内の声が響く。
それだけで、何故こんなにも安心してしまうのだろうか…。
「本当だな…」
『うん、本当だよ。だからもう泣くなよ』
「な…泣いてない!」
『嘘吐けよ。泣いてたじゃん』
「泣いてない…っ!!」
『分かった分かった。泣いてても泣いてなくても、もうどうでもいいや。さっさと帰ってその顔見てやりゃいいんだからな』
最後にクスッと笑って、城之内は『じゃ、また連絡入れるから』と言って電話を切った。
部屋の中はまた静かになり、オレ一人が残される。けれどもう…寂しくも何ともなかった。
机から身を起こし窓辺に近寄って、外の風景を眺めてみる。相変わらず雪はシンシンと降り積もり、街の景色を真っ白に変えていく。明日の朝には一面の銀世界になっているだろう。
大人になってからは、雪はただ憂鬱なものに過ぎなかった。
けれど今はこんなに気持ちが高揚している。ワクワクしている。
今夜はきっと眠れない。風邪を引かないように温かい上着を羽織って、夜中まで降り続ける雪を見よう。どんなに深く積もっても、オレはもう焦ったりはしない。寂しくもならない。
この雪が溶ける頃には、お前が目の前にいると信じているから…。
静かに優しく降り積もる雪を少しでもゆっくり眺める為に早く帰ろうと、オレはコートを羽織って部屋を出た。
たまには雪も悪く無いと…そう思いながら。