「っ…ぁ……!」
息を詰めて達し、脱力した細い身体をオレは強く抱き留めた。首筋も背中も汗びっしょりで、オレに全体重をかけたままハァハァと荒い呼吸が止まらない。「大丈夫か…?」と声をかければ、微かに頷く気配がして安心した。
そのまま二人して抱き合って息を整えていると、そこに冷たい秋風が吹いてきた。火照った身体には丁度良い冷たさだけど、このままここにいればあっという間に身体が冷えてしまう。温泉に来て風邪引いて帰ったとか洒落にならねーとか思いつつ、慌てて海馬の肌蹴けた浴衣を直してやった。
ていうか…海馬のこの惨状をどうするべきか…。
前はコイツが放ったもので、後ろはオレの放ったものでドロドロだ。とりあえず身を引いて海馬の体内から自らのモノを引き摺り出すと、案の定、そこからドロリとした粘液が零れ出てくる。
残念ながらタオルとかハンカチとかそういう便利な物は持って来て無かったので、浴衣の裾でおざなりに拭っておいた。
あ、結構濡れちゃった。これは…もう着れないなぁ…。後で換えの浴衣を持って来て貰おう。
とりあえずぐったりしたままの海馬をオレの上から降ろして脇に座らせる。次に未だ怠さを訴える腰を叩いて立ち上がると、オレは地面に脱ぎ捨てられていた下駄を手に取って揃えて置いてやった。
「ほら、下駄履いて。とりあえず離れに戻ろう。このままここにいたら風邪ひいちまう」
「………」
オレの言葉に海馬の答えは無いが、どうやら答えないのではなく答えられないらしい。未だ赤味を差したままの顔でコクリと頷くと、震える足でゆっくりと下駄を履いていた。そしてそのまま立ち上がろうとして…ぐらりと蹌踉めいてしまう。慌てて海馬の身体を抱き寄せたら、まるで甘えるように寄りかかってきた。支えている腰がガクガクしている。
うーん…。ちょっと無理させ過ぎたか…?
「おい…、マジで大丈夫か?」
「………。だ…だいじょ…ぶ…だ…」
「そんな事言っても、足も腰もガクガクじゃん」
「う…煩い…っ。貴様が仕掛けた癖に…っ」
「うん、そう。オレのせいだ。だから心配してんじゃん。離れまで歩ける?」
「余計な世話だ…っ」
余計な世話だと言う割には自力で立てないらしく、海馬はオレの腕を掴んで離さなかった。仕方無く…というよりはむしろラッキーと思いつつ、海馬の腰を支えつつゆっくりと離れへと歩いて行く。
こんな風にヨレヨレになった海馬に頼られると何となく嬉しいというか…やっぱり守ってやりたいって思うんだよな。普段が守る必要が全く無いヤツだから、余計そう思うのかもしれない。まぁ、ヨレヨレにしたのは誰でもない、このオレなんだけど。
あんまり嬉しくてニヤニヤしていたら、いつの間にかその顔を海馬にじっと見られていた。心なしか睨んで来ているような気はしたけど、今は幸せ一杯だから敢えて気付かないふりをする。試しに「何?」って聞いてやったら、海馬も「別に」と言って自ら視線を外していた。
「身体冷えてきたから、離れに着いたら風呂に入ろうな。さっきも言ったけど、離れにも個別の露天風呂が付いてるからさ」
「………」
「何?どうしたの?そんな難しい顔して」
「何が露天風呂だ。どうせ貴様も入ってくるのだろう?」
「うん、入るよ。当然じゃん」
「っ………!」
「ちょっと…何でそんな嫌そうな顔してんのよ。あ、あれか!風呂でオレが何かしてくるのを心配してるとか?」
「良く分かっているではないか」
「大丈夫大丈夫、風呂では何もしないよ。一緒に仲良く温泉に浸かるだけだって」
「………。信用出来んな…」
「本当だってば。約束するから安心して」
そんな事を話している間にオレ達が泊まっている離れへと着く。
ガラスの扉を開けて玄関に入り込み、部屋には行かずそのまま風呂場に直行した。汗が冷えて大分身体が冷えていたので、早く風呂に入ろうと脱衣所で一緒に浴衣を脱ごうとしたその時。海馬の手がオレの手を掴んで止めた。
「ん?何?」
「五分…、いや十分待て。先に入って身体を洗うから…」
「………。あぁ、なるほどね」
海馬の言う身体を洗うって言うのは、ようは体内の処理をするって事だ。
海馬は自分で処理をしている場面をオレに見られるのを極端に嫌う。オレ的には別に見ていても構わない…っていうか見ていたいんだけど、それを言うと泣く程怒るから敢えて言わない事にしている。
つーか、そんなに怒る事かねぇ?入り口どころか、中身までバッチリ見られてるっていうのにさ。ホント今更だよなぁ。
そう思いながらも仕方無く頷いて、海馬が浴室に入っていくのを黙って見送った。やがて内風呂の方からお湯を被る音が聞こえてくる。
どうせこの後風呂に入るから部屋に戻るのも面倒臭いと、オレは脱衣所に備え付けられていた椅子に座ってずっとバシャバシャとお湯が流れる音を聞いていた。結構待ったからそろそろ大丈夫かと思って、オレもさっさと浴衣を脱ぐと内風呂に続く扉を開け放つ。
ズカズカと入り込むと、身体中泡だらけにした海馬が驚いた表情でオレの事を見詰めていた。
「なっ…。き、貴様!十分待てと言っただろう!」
「十分かどうか分からないけど、結構待ったぜ。いいじゃん。どうせ中の処理は終わって、今身体洗ってただけなんだろ」
未だ文句を言いそうな海馬を無視して隣に腰を下ろし、オレも桶にお湯を汲んで肩から浴び始める。身体はさっきの大浴場でしっかりと洗っていたから、ざっと流すだけにする事にした。
ちらりと隣を見ると、神経質そうにスポンジを身体に滑らせている海馬の姿が目に入ってくる。
ったく…。普段はおざなりにしか洗わない癖に、セックスの後だけはしっかりと身体を洗うんだからなぁ…コイツは。何か如何にも「意にそぐわない事をされました」って言われているみたいで、微妙にショックを受ける。
勿論海馬がそんなつもりでいる訳じゃないって事は分かってる。でもさぁ…、せっかくオレが付けた匂いや痕跡を、まるで親の敵みたいにガシガシ洗われたりするとさ、そんなに嫌だったのかって思いたくもなるよな。海馬としてはただ汗とか唾液とか精液なんかの汚れが嫌なだけなんだろうけど。
「はぁ………」
暖かいお湯を被りながら深く溜息を吐いたら、同じようにお湯を被って身体の泡を流していた海馬と目が合った。
「何だ?」
「何が」
「今溜息を吐いただろう」
「あぁ、コレは気にしなくていいよ」
「そう言われると余計に気になるのだが」
「別に大した事じゃ無いから。ただちょっと…世の無常を感じちゃっただけ」
「はぁ………?」
全く意味が分からないらしい海馬は、オレの言葉に不思議そうな顔をしてちょこんと首を斜めに傾げた。その動作が凄く可愛らしくて、単純なオレの脳みそは即座に欝から躁へとスイッチを切り替える。
うっ…!この罪作りな男め…っ!とそんな事を思いつつ、オレは何でも無いような顔をして立ち上がった。
結局海馬には勝てないんだよなぁ…。ま、そんな事分かってて恋人やってんだけどさ。
内風呂で身体を綺麗にして露天風呂へと続く扉を開くと、目の前に現れたのは立派な檜の浴槽だった。
外から見られないように木の板で囲いがしてあって、周りの木々が美しく紅葉している様は下からのライトアップで美しく映えている。
全風呂掛け流しの温泉の為、勿論離れの個人風呂も掛け流しだ。こんこんとお湯が溢れている浴槽に手を入れてみると、少し熱めの温度が指先から伝わってくる。心なしか先程の大浴場よりお湯の温度が高いような気がする…と思って、背後にいる海馬を振り返った。
「何かあっちの風呂より熱いような気がするんだけど」
腕を肘まで入れてお湯を掻き回しながらそう言ったら、海馬が「ふむ」と言って同じように湯の中に手を差し入れた。そして合点がいったように軽く頷く。
「なるほど。源泉の温度は変わらないからな。大浴場よりこちらの風呂桶の方が小さいだろう? その分湯温が下がりにくいんだ。まぁこの程度だったら入っていればすぐに慣れる」
そう言って海馬はさっさと足を突っ込んで、その場にゆっくりと身を沈め始めた。海馬の体積の分のお湯が檜の風呂桶から盛大に流れ出す。
ある程度まで入り込んで深く息を吐き出した海馬を見て、オレも風呂桶の中に片足を突っ込んだ。やっぱり先程の大浴場より大分熱く感じて、時間をかけてじっくりと身体を湯温に慣らしていく。
「あちち…。お前よくこんな熱い風呂に肩まで入っていられるな…」
「別に。慣れれば大した事は無い」
「意外だなー。お前は絶対温い風呂の方が好きなんだとばっかり思ってた。普段だってシャワーだけで済ませたりしてるしさ」
「疲れが溜まった時は、よくこうして熱い風呂に入ったりしてるぞ。お前が知らないだけだ」
檜の風呂桶に半分寄りかかって、海馬は実に気持ち良さそうに溜息を吐いた。そうこうしている内にオレ自身も大分湯温に慣れてきて、上半身までしっかり温泉に浸かる事に成功する。ザバリと再び大量の湯が風呂桶から零れ落ちた。と、その時…。
「っ…!いって…っ」
湯に浸かった途端に、鎖骨の辺りに鋭い痛みを感じて飛び上がった。熱いお湯がじわりと浸みるようなそんな痛みに慌てて視線を下に向けると、そこに見事な歯形があるのに気付く。
こ、これは…、さっき外でヤッた時の…。
「痛いなぁ…コレ。超浸みるんですけど…」
「煩いわ。自業自得だな」
恨みがましく視線を向けても海馬は素知らぬふりで温泉に浸かり、こちらを見ようともしない。まぁあんな場所で無理させちゃったのは間違い無くオレのせいなので、ここは大人しくお湯に浸かる事にする。
今度はいきなり身体を沈めないで、なるべくゆっくりと肩までお湯の中に入り込んだ。胸元の傷は相変わらず痛みを訴えるけど、さっきよりは酷く無い。最初は熱いだけだったお湯も、長く浸かっていればだんだんと身体に馴染んできた。
うん、確かに慣れれば大した事ないな。外気温が冷たいから意外と長湯出来そうだ。
そう思いつつ空を見上げたら、そこには白く清らかな美しい月が輝いていた。空気の澄んだ秋の夜空に輝く月は本当に綺麗だって思う。月って何か海馬に似てるしな。あの白さとか、一瞬冷たく見えるところとかさ。
でも実は月光がとても優しい事をオレは知っている。太陽みたいに直接的で攻撃的なギラギラした光じゃなくて、もっと間接的で優しい癒しの光ってヤツだ。
海馬が放つ光は一見すると太陽の光に見える。直接的で攻撃的でギラギラしていているから。でもそれは海馬が放つ本当の光じゃないって事を、オレはコイツと付合って初めて知った。
太陽の光はタダの虚構。がむしゃらに直進する海馬の姿勢に隠されて見えない本来の光は、優しく辺りを包み込むような柔らかい月光だ。海馬が心から気を許した人間にしか差し込まないその光は、いつしかオレの全身を照らしていた。
だからオレは愛した。オレを愛してくれるその光を、心から愛しいと思ってより愛した。
「海馬。ちょっとこっちに来てよ」
風呂桶に凭れかかっていた身体を引き寄せて背後から抱き締めると、海馬が一瞬慌てたように肩越しに振り返った。オレはそんな海馬になるべく安心させるように微笑むと、海馬の身体を抱き締めたまま反対側の風呂桶に寄りかかって軽く息を吐いた。再び空を見上げると、そこには変わらず白く輝く月がある。柔らかな月光の下、温泉の温かな湯気が夜空に消えていく様も風情があってとても綺麗だった。
「あぁ…。本当にいい月夜だな」
オレを警戒して身体を硬くしている海馬をギュッと抱き寄せて、夜の空気に冷たくなった栗色の髪に頬を寄せる。
「そんなに警戒しないでよ。ここじゃこれ以上何もしないから」
「それを安易に信じろと言うのか…? 何もしないと言って酷い目に会った事ならいくらでもあるのだが」
「あはは、ゴメンゴメン。でも本当に何もしないから。実はさっきので結構満足しちゃったし」
オレの言葉で先程の行為を思い出したのだろう。サーッと首筋まで赤くした海馬は、そのまま黙って俯いてしまった。
この赤味は…温泉に浸かっているからってだけじゃないよなぁと思いつつ、目の前に晒された綺麗な項をじっと見詰める。お湯と…それから汗と。まるで玉のような水滴が白い肌に浮かんでいた。男にしては細い首筋と、俯いている為に皮膚の上に現れた頸椎の形の色っぽさに、ドキリと胸が高鳴る。周りの汗と融合した大きな水滴が形を保てなくなってつつーっと流れ出したのを見て、思わずそれをペロリと舐め取ったらビクリと反応された。
あ、ゴメン。何もしないって言ったのにやっちゃった…。
「き、貴様…っ。何もしないと言っただろう!?」
案の定怒られちゃったけど、あんな色っぽい光景見せられちゃったら…仕方の無い事だよな?
むしろ男としてあんなものを見せられて何も出来ないようじゃ、そっちの方が健全じゃないような気がするんだけど。
「ゴメン。ついやっちゃった」
「ついって…お前は…っ。だから信用ならんのだ」
「悪かったって。もうこれ以上はしないから。あ、でももうちょっとだけ項触ってもいい? キスだけでもいいから」
「こ、こら…城之内っ! っ…ぁっ…」
腕の中に細い身体を抱き締めて、目の前に晒されている項にオレはそっと唇を寄せた。今にも流れ落ちそうになっている水滴を吸い取るようにチュッと音を起ててキスをして、浮かんでいる丸い骨に軽く歯を当てる。
普段から首筋への刺激が弱い海馬だけど、さっき野外でしたせいで大分感じ易くなってるみたいだ。頸椎の形に添って舌で舐め上げるだけで、フルリと震えて小さな声を漏らす。
せっかくだからこのまま露天風呂エッチとかもしてみたいけど、でも今日は海馬の誕生日だから。オレの欲望だけに走らずに、ここは余り無理しない事に決める。
首筋どころか耳まで真っ赤にしてる海馬を抱き締め直して、オレは再び風呂桶に上半身を預けて空を仰いだ。
温泉に浸かりながらオレが黙って月を見ている事に気付いたらしく、オレの腕に抱かれたまま海馬も同じように空を見上げてくれた。
「静か…だな」
「あぁ…」
「月も…綺麗だな」
「そうだな…」
交わした言葉はたったそれだけ。後は二人して黙って湯船に浸かっていた。
見えるのは秋の澄んだ夜空、白く輝く月、ライトアップされた紅葉、海馬の白い項と栗色の後頭部。聞こえるのは木々を駆け抜ける冷たい風の音と、秋の虫が奏でる音色。湯口から檜の風呂桶に温泉が注ぎ込まれる音と、風呂桶から溢れ出た湯が排水溝に流れていく音。そしてオレや海馬が身動きするたびにチャプチャプと温泉の水面が起てる水音…。
美しい夜だった。こんな静かで美しい夜をオレは知らない。こんなに静かで美しくて…そして幸せな夜を味わえた事に心から感動する。
多少懐が寒くなったりはしたけどさ。たった今、この一ヶ月の苦労が全て報われたような気がしたんだ。
「ありがとう…海馬」
白い首筋に顔を埋めてそう囁いたら、海馬が不思議そうに少し首を傾げるのを感じた。
「何がだ、城之内?オレはお前に礼を言われるような事は何一つしてないぞ?」
「そうでもないんだよ。オレ、来年も頑張るからな」
「は………?貴様、何を言っているんだ?」
この期に及んで未だ何も気付いていない海馬に苦笑しつつ、オレは細い身体に回した腕に少し力を込めた。
それから数刻後、まだゆっくり風呂に浸かっていたいという海馬を残して、オレは先に風呂から上がった。備え付けられていたバスタオルでざっと身体を拭いてしまうと、浴衣を羽織って部屋の中に戻って来る。そしてそのまま内線電話へと手を伸ばした。
受話器を取ってフロント宛ての番号を押し、受話器を耳に当てたらワンコールで向こうと繋がる。
「どうなさいました?城之内様」
間髪入れずに聞こえて来た丁寧な声に、オレは心底感心した。
かかってきている部屋番号から、誰が電話をかけてきているのか分かるらしい。こういうところが素晴らしいというか…、流石老舗旅館ってヤツなんだろうな。
「スイマセン。さっき庭を散歩していたらちょっと浴衣を汚しちゃって…。換えの浴衣を持って来て欲しいんですが。あの…二人分」
「畏まりました。サイズの方は城之内様がご指定されたものと同じで構いませんか?」
「あぁ、はい。お手数かけますが宜しくお願いします」
「承りました。すぐにお持ち致します」
フロント係の優しい声にホッと一安心して受話器を置く。
うん、大丈夫。嘘は言ってないぞ、嘘は。『庭を散歩してたら汚しちゃった』事に間違いは無いからな。
だって流石にさぁ…、この浴衣を着て眠るのはちょっと無いよなーとか思っちゃうんだよね。アレでかなり濡れちゃった浴衣は、未だにあちこちが冷たく感じる。まぁ殆ど海馬が出したヤツなんだけどさ。
本当はオレは別に構わないんだよ。そんな細かい事気にする性格してないし。でも海馬は絶対嫌がるだろうしさ。今日は海馬の誕生日なんだから、少しでも快適に過ごして貰わないとな。
そう思いつつ備え付けの冷蔵庫からコーラの缶を取り出して一口飲んだ時だった。玄関のガラス扉が数度叩かれた音に気付く。そのままいそいそと玄関に向かって鍵を開けたら、扉の向こうから現れたのはこの離れを担当している仲居さんだった。
「お待たせ致しました、城之内様。こちらが換えの浴衣でございます」
「ホントすいませんでした。ありがとうございます」
差し出された浴衣を受け取りながらペコペコと頭を下げたら、仲居さんはオレを安心させるようにニッコリと笑ってくれた。
「いえいえ、とんでもございません。汚れた浴衣は脱衣籠の中にでも入れておいて下さいませ」
「はい、そうしときます」
「それではごゆっくりお寛ぎ下さいませ。何かございましたらいつでもお呼び下さい」
仲居さんはその場で深々とお辞儀をすると、ガラス扉を丁寧に閉めながら帰って行った。仲居さんの気配が遠ざかるのを確認しながら、オレはガラス扉の鍵を閉 める。そしてそのまま浴室に戻り、海馬の脱衣籠に新しい浴衣を入れて置いてあげた。ついでに自分も新しい浴衣に着替えてしまう。
浴室の扉の向こうからは、未だにザバ…とかバシャリ…とか不規則な水音が聞こえて来ていた。
つーか長ぇな…。いつまで入っているつもりだよ。
そんな事を思いながらも、海馬がこの温泉を気に入ってくれた様子が手に取るように分かって、何だか嬉しくなってきてしまった。
まぁいいさ。そんなに気に入ったのならゆっくり入っているといいよ。今日はお前の誕生日なんだから、好きな様に過ごせばいい。
上機嫌で温泉に浸かっている海馬を想像しながら、オレはとても幸せな気持ちで部屋に戻っていった。
冷蔵庫の上に置きっぱなしだったコーラの缶を手に取って中身を飲みながら奥の部屋を覗いたら、そこには既に布団が敷かれていた。寝室の電気は消されていたけど、枕元に置いてある電気式の行燈が暗闇の中で優しいオレンジ色の光を放っていて、それがとても幻想的だと感じる。
「お、凄い。もう布団敷かれてるじゃん」
ズカズカと奥の部屋に入り込んで上から布団を眺めてみると、二つの布団の間に隙間が空いていて思わず笑ってしまった。
そりゃそうだよなー。男二人の『友人』同士の旅で、布団はくっつけないよな。
うん。仲居さんは悪くない。という事でオレがくっつけておこう。
片方の布団をズリズリ引き摺って隣の布団とピッタリくっつける。
並んだ布団に「よし、これでオッケー」と満足して振り返ったら、丁度海馬が風呂から上がってきたところだった。首にかけているタオルで汗を拭いつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出している。
熱い湯温だったのに無理して長風呂したらから喉が渇いているんだろうな。キャップを外して凄い勢いでゴクゴクと冷たい水を飲んでいた。
「スッキリした?」
そう声をかければペットボトルから口を外した海馬は、オレの方をちらりと見遣った。その瞳が何か言いたそうなのにわざと気付かないふりをして、テーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手に取って電源を入れる。
テレビ画面では丁度十時のニュースが始まったところだった。普段のオレだったら即バラエティにチャンネルを変えるところだったけれど、そろそろ海馬も ニュースを見たがるだろうと思ってそのままにしておく。思った通りテレビ画面に視線を移した海馬は、ペットボトルを持ったまま座布団の上に座り込んでテー ブルに肘をついた。
そんな海馬を見つつ、オレは至極珍しい光景に感心してしまう。
海馬はいつでも姿勢が真っ直ぐだ。テレビを見たりしている時でさえ、こんな風にテーブルに肘をついたりする事は無い。いつもの洋風リビングとは勝手が違うっていうのもあるんだろうけど、それにしたって貴重な光景だと思う。
ここに着いたばかりの頃はあんなに警戒していたというのに、いつの間にかすっかりリラックスしているのだ。ペットボトルの水を一口ずつ飲みながらニュースに見入っている海馬の顔に、いつもの眉間の皺は見当たらない。
そうだ。オレが望んでいたのは、こういう時間だった。
つまらない事で言い争いをする時間でも、反対に激しく愛し合う時間でも無い。ただ海馬と共に同じ空間で息をして、ゆったりと流れる時間を楽しみたかったん だ。そしていつも生き急いでいる海馬にもそんな時間を望んで欲しい、そして楽しんで欲しいと願って用意したのが、今日のこのプレゼントだったって訳だ。
だからといって激しく愛し合う時間を望んでいないかというと、そういう事でも無いんだけどな。
ゆったりと、そして激しく海馬と共に愛し合いたい。両極端な愛をどっちも欲しがるなんて、オレは何て欲張りなんだろうと思う。
だけど…仕方無いじゃないか。それだけコイツに惚れちまっているんだからさ。
出来ればずっとこのまま…この時間を楽しみたいと思った。明日になったらまた日常に帰らなくてはならないと分かっていても、そう願わずにはいられなかった。
「好きだよ」
飲み終わったコーラの缶をテーブルに置きながらポツリとそう囁いたら、海馬が一瞬だけこちらを向いてくれる。そして僅かに頬を染めながら「知ってる」と言って再びテレビに視線を戻してしまった。
そんな素直じゃない海馬の態度にクスクス笑いながら、オレもテレビ画面に目を向ける。経済ニュースが終わった画面では、新しくスポーツニュースが始まっていた。日本シリーズの劇的な結果を伝えるアナウンサーの声が興奮気味に流れてきたが、オレの耳にはよく届かない。
興味も無いスポーツニュースを必死に見ているふりをしている海馬を見詰めるのに、全神経を集中していたからだった。
最後の天気予報のコーナーが終わって、見ていたニュース番組が終わってしまう。手元に持って来ていた携帯のフリップを開いてみると、ディスプレイに表示されている時計はそろそろ十一時になりそうだった。
(あと一時間…)
そう、あと一時間で十月二十五日は終わる。そうしたら海馬にこのプレゼントのネタバラシをしてやろう。
その時の海馬の顔を楽しみにしつつ、少々ニヤつきながら携帯を閉じた時だった。「城之内」と至極真面目な声でオレを呼ぶ声が聞こえて、そちらの方に視線を向けた。そこには青い瞳を真っ直ぐにこちらに向けている海馬がいる。その真剣な瞳に漸く気付いたか?とも思ったけど、どうやらそうでは無いらしい。
テレビは番組が変わって、深夜の海外ドラマが流れていた。声を宛てている有名声優の声を聞きながら、じっと海馬が何かを言い出すのを待つ。暫く黙ってオレを見詰めていた海馬は、やがて小さな溜息と共に口を開いた。
「少し…聞きたい事がある」
来た…っ!と思いつつも、オレはなるべく平静な顔をしながら首を傾げてみせた。
「何?」
「今日…オレがここに連れて来られた事に関してだ」
「うん」
「さっきからずっと考えていたが、どうやらこれは計画的な犯行だという事までは理解した。ついでに言うと、お前やモクバや磯野がグルだという事もな」
「犯行って、お前なぁ…。別に法に触るような事はしてないつもりだけど。うん、まぁ…それで?」
「その目的がオレに休養を取らせる為だという事も…何となく分かった」
「あぁ、そこはちゃんと理解してくれた訳ね」
「まぁな。だが…だがそこから先が分からない。どうして急にこんな事をした?何故突然拉致して連れて来るような乱暴な真似をしなければならなかった」
「急に…ねぇ」
「そうだ。さっきも言ったが、これは計画的に企てた事なんだろう?だったら予めオレにもそう伝えてくれれば、こちらもそれ相応の準備が出来た筈なのに…。どうして伝えてくれなかった?」
「予めっていうか、伝えてたら全く意味が無かったんだけどな」
「とにかくだ!オレをここに連れてきた理由を話せ、城之内!」
オレを見詰める海馬の視線は至極真剣だ。まぁ確かに突然拉致されてこんな所に連れて来られれば、不信感も抱いてしまうのも仕方が無いんだろうけどな。
それにしたって…鈍過ぎるだろ。自分の誕生日があと一時間程で終わってしまうというのに、この聡明な恋人はその事に全く気付いていない。普段は余計なくらいに回転する頭も、自分の事に関してはオレ以上に鈍感になってしまうのだ。
本当に…困ったヤツだなぁ…。
「参ったね、こりゃ」
苦笑しつつ、手に持っていた携帯のフリップを再び開く。そこに記された時間は十一時十五分。日付が変わるまで…あと四十五分だ。
パチリと音を起てて携帯を閉じ、オレは真っ直ぐ海馬の瞳を見返した。そして笑みを浮かべたまま、なるべく真面目な声を出す。
「海馬。教えてやってもいいけど、もう少し自分で考えろ」
「何だと…?」
「今の時刻は十一時十五分。零時まであと四十五分。この四十五分で答えが出なかったら、教えてやってもいい」
「な…何だそれは…。そんな事に何か意味があるのか?」
「勿論。意味があるからしてるんだよ。とにかく自分で考えてみな。それまではオレは何があっても答えは言わねーから」
そこまで言って、あとは海馬を無視する為にテレビに視線を移してしまった。普段は見ない海外ドラマだから、一体どういう展開になっているのかさっぱり分からない。だけどオレはそこから視線を外す事はしなかった。少しでも視線をずらしてしまえば、睨むようにオレを見詰めている海馬に気付いてしまうから。
オレの頑なな態度に海馬も無理だと気付いたんだろう。結局はそれ以上は何も言わずに、深く考え込み始めた。
そうそう、よーく考えな。無事に答えが出たら何かご褒美をあげよう。出なくてもあげるけどな。
全く理解出来ないドラマの展開を見守りつつ、オレはそっと携帯を開いた。浮き出た時間は十一時二十分。あと…四十分。
四十分後を楽しみにしつつ、オレはそっと笑った。
何だかとっても…幸せだったんだ。
携帯の時計が十一時五十五分を表示した辺りから、オレはずっと携帯と海馬の顔を交互に見ていた。海馬は顎に手を当てて、更に眉間に皺を寄せて必死に考えているようだけど、答えは一向に出て来ないらしい。
ていうかさ、これって普通の人間だったら考える間もないくらいの簡単な問題だよな。でも自分の事に全く興味の無い海馬に取っては、この上もなく難しい問題らしかった。どんだけ考えても答えは出て来ず、時間だけが無意味に過ぎていく。
「あと一分」
唐突にオレが告げたその一言で、海馬が慌てたように顔を上げた。
「ま…待て、凡骨! あともう五分くれ…っ」
「凡骨って言うな。あとそのご要望は承りかねます。あと四十五秒」
「せめてヒントを…っ!」
「ノーヒントです。あと四十秒」
最初は渋々考えていたらしい海馬も、時間が経つに連れて本気で考えるようになっていた。どうやらこの真相当てが一種のゲームみたいになってたらしい。オレが決めたタイムリミットまでに答えが出なければ、それ即ち海馬の負け…という事になるらしくて、負けず嫌いの海馬が本気で焦っているのが目に見えるようだった。
何とかしてタイムリミットを伸ばそうとした海馬の最後の足掻きも、オレには全く届かない。順調に進んでいく携帯の時計を見ながら、オレは淡々と口を開いた。
「ほら、もう時間がないぜ。あと三十秒」
「今考えている最中だ!くそっ…!」
「文句言ってる暇無いと思うけど?あと二十秒」
「わ、分かっている…っ!」
「マジで何も浮かばない訳?あと十秒」
「っ………!」
「あと五秒。さーん、にー、いーち、終了ー」
終了の合図と共に、携帯にセットしてあったアラームが鳴る。ディスプレイに表示されている日付が十月二十六日になったのを見たら、何だか自然と笑えてきた。
全くコイツときたら…。マジで自分の事には無頓着なんだからなぁ。
海馬は結局タイムリミットまでに答えを出すことが出来ずに、悔しそうにこちらを睨んでいる。その顔にニッと笑いかけて、オレは身を乗り出して話しかけた。
「残念だったな。マジで全然分かんなかった?」
「くっ…!」
「そんな悔しそうな顔しないで。ちゃんと答え教えてあげるから。ほら」
本気で苦虫を噛み潰したような顔をしている海馬に、オレは手に持っていた携帯のディスプレイを見せてやった。
海馬に見せてやりたかったのは今日の日付。けれど海馬はそっちじゃなくてオレが設定している壁紙に注目し、「あぁ、KCで配信している『真紅眼の黒龍』だな」と見当違いの事を言ってのけた。
違う違う。確かにこの壁紙はKCの公式サイトからダウンロード出来るヤツだし、凄く格好良くてオレのお気に入りだけどさ。オレが見せたいのはそこじゃねーっての。
「で?これが何だと?」
「違うって海馬。壁紙じゃなくて日付を見てくれよ」
「日付だと?確かに今日は十月二十六日で、貴様の携帯も狂っていないようだがな」
「ちょっ…お前…。本当に分かってないんだな」
「だから何をだ」
「今日が二十六日って事はだ…。昨日…つまりさっきまでは何日よ」
「さっき…?二十六日の前日は二十五日だろう?そんな当たり前の事が何だというのだ」
「そう、二十五日だ。十月二十五日。この日が何の日なのか、お前本当に分からないのかよ?」
「十月二十五日…?」
「そう、十月二十五日」
「そんなもの決まっているだろう。十月二十五日と言えばオレの…。オレの…。オレ…の…誕生日…?」
気難しい顔から一転して驚きの表情に変わった海馬は、丸い目をキョトンとさせてオレの事を見ていた。その顔が予想外に幼く見えて、心の底から愛しく思う。
全く…。ここまで来るのに、どんだけ手間かけさせやがるつもりだ。
「やっと気付いた?」
少し呆れたように問い掛ければ、目を丸くしたまま微かに頷いた。
「まさか…。まさかとは思うが…城之内」
「ん?何?何か思い付いた?」
「思い付いたというか…。これは…まさか…」
「だから何?頭に浮かんだ事を言ってみろって」
「まさか…これは…誕生日プレゼント…だったのか…?」
「そう、大当たり。ちょっとしたサプライズってヤツかな」
「サプライズって…っ。こんな立派な旅館、一体誰の金で…。あぁ、もしかしてモクバか?」
「違う。ここを予約したのも、その代金全部用意したのもこのオレだ」
「お前が!?」
「そう、オレが用意した。これはオレからお前への誕生日プレゼントだよ」
「だ…だが…、そんなお金一体どこから…」
「うん、金は無かった。ものの見事に全く。だからこの一ヶ月一生懸命バイトして、何とか金貯めてたんだよ。お陰でこんな立派な旅館を予約出来たし、モクバに金借りるなんて情けない真似をしなくても済んだ。自分で自分を褒めてやりたいくらいだぜ」
「………。そうか…」
「ん?」
「それで貴様…、この一ヶ月間全く顔を見せなかったんだな…」
「そういう事」
やっとネタバラシ出来た安心感でオレは上機嫌だった。唇を硬く引き結んで俯いた海馬に何を勘違いしたのか「何々?もしかして照れてんの?感動しちゃった?」なんて軽口を叩きながらその顔を覗き込む。だけど次の瞬間、オレは酷く後悔した。
海馬は…何故か怒っていた。いつもは静かな青い瞳が熱く揺らめいている。
「か…海馬…?」
理由は全く分からないが、海馬が酷く怒っている事に気付いてオレは狼狽した。
何でこんなに怒っているんだ?オレ何かしたか…?何か変な事でも言っちまったのか…?
どんなに考えても答えは出て来ず、焦りばかりが募っていく。
「えーと…、何で怒ってるのかな…?」
「………」
「このプレゼント、気に入らなかった?」
「違う」
「それともここの旅館がイマイチだったとか?」
「それも違う。オレが言うのもなんだが、ここは最高だ」
「あぁ、じゃあもしかして、オレの金なんかで温泉を楽しむ事自体が嫌だったとか…」
「そんな訳ある筈ないだろう!!」
熱を持った青い瞳からじわりと大粒の水分が盛り上がって…、そしてポロリと零れ落ちた。その瞳からは怒りだけではなくて、悲しみや寂しさや悔しさや…とにかく色んな感情が見えている。
海馬がこんな複雑で混乱した表情をオレに見せるのは、初めての事だ。
溢れ出た涙を鬱陶しそうに浴衣の袖で拭いながら、海馬は怒った口調のままでオレに怒鳴った。
「感動なんかするものか!馬鹿者が…っ!この一ヶ月間、全く姿を見せなくなったお前を、オレがどれだけ心配していたのか分かっているのか!!」
「え………?」
「父親の事で何かあったのだろうかとか…借金がまた増えたのだろうかとか…働き過ぎで病気にでもなったのだろうかとか…、遂にオレに愛想を尽かしたのだろうかとか、色々心配しただろうが!!」
「なっ…!!ちょ、ちょっと待って!それは無い…っ。それだけは絶対無いから!オレがお前に愛想を尽かすなんて…、逆はあってもこっちからは絶対無ぇよ!!」
「分からんぞ。キスをしようがセックスをしようが、所詮オレ達は男同士だ。貴様の目の前に好みの女性でも現れたりすれば、そっちを選ばないとどうして言える!!」
「何で今更そんな事を言い出すんだ!!ずっとお前の事だけを好きだって、言ってるじゃんか!!オレを信じてないのか!?オレの気持ちを疑うのか!?」
「信じさせてくれないのは貴様の方だろう!?いつも巨乳のエロ本を持ち歩いて、街を歩けばケバイ女に振り返り、その度に好みだ何だと鼻の下を伸ばす癖に…っ!!しかも今回は何も言わずに突然一ヶ月も無視されて…っ!これでどうやってお前を信じればいいと言うのだ…っ!!」
青い瞳からは絶えず涙が零れ落ち、せっかく温泉に入ってスッキリした顔はグシャグシャになっていた。
こうやって二人きりで会えたのも一ヶ月ぶりなら、こんな派手な喧嘩をするのも一ヶ月ぶりだ。いや、もっとかな。最近はオレも海馬も大人になって、ここまで酷い喧嘩をするような事はすっかり無くなっていた。
だからかな。久々に大声で怒鳴り合ったせいか、オレは海馬が本当に訴えたい事に気付く事が出来たんだ。
そうか…。そうだったんだな。何で気付けなかったんだろう…。
海馬の本心に気付いたオレは速やかに立ち上がって、テーブルの向こう側まで歩いて行く。そして未だ声を奮わせて泣き続けている海馬の側に膝を付いて、細い肩をそっと抱き寄せた。大した抵抗もなく引き寄せられる身体をギュッと強く抱き締めて、栗色の髪を優しく撫でる。
「ゴメン…ゴメンな…。お前、寂しかったんだな…」
「っ………!」
海馬の身体がビクリと揺れて、オレの言葉を肯定する。
滑らかな髪を撫でながら、オレは最初にこの部屋で顔を合わせた時の海馬の事を思い出していた。
海馬は…ずっと苛ついていた。
オレはそれを、何も知らされずに突然こんな場所に連れて来られた不安から来ているもんだとばっかり思ってた。だけど本当は違ってたんだな。いや、勿論それも関係あったんだろうけどさ。
多分海馬は…ここに来る前からずっと苛々していたに違いない。
他人の干渉を拒絶していつも胸を張って一人で頑張っている癖に、妙なところで寂しがり屋の海馬。寄るな触るな邪魔するなと酷い事を言ってくる癖に、本当に放っておかれると拗ねる海馬。
そんな海馬が一ヶ月もオレに無視されて、不安にならない訳が無かったんだ…。
「心配かけてゴメン…。ホントにゴメン」
海馬の胸の内を支配していた不安を消し去る為に、心から謝罪の言葉を述べた。
「海馬…。ゴメンな…」
「オレが…どれだけ…っ、不安…だったか…っ」
「うん…、ゴメン」
「もう…呆れられたのかと…そう…思って…」
「そんな事はしねーよ。呆れるなんてある訳ない」
「けれど…オレは…ずっとそう…思ってて…。いつかきっと…こんな日が来るんじゃ無い…かと…。それがいよいよ…来てしまったのか…と…っ」
「大丈夫だよ。そんな日は絶対に来ないから、安心して。約束するからさ」
「それを…信じろ…と…?」
「うん、信じて。ホントにゴメンな…。お前の為に良かれと思ってやった事が、却ってお前を不安にさせちまった。もうこんな寂しい思いはさせないから…」
腕の中の海馬を心から大事に想って、そしてその想いを込めて強く強く抱き締めた。ただ為すがまま抱かれるだけだった海馬の腕がそろりと動いて、やがてオレの背に回って同じように強い力で抱き締め返してくれる。腕の中と、それから背中から感じる熱が愛しくて堪らない。
「好きだよ海馬、愛してる。オレはただお前に喜んで欲しかっただけだったんだ…。それがお前をこんなに寂しがらせる事になるだなんて…思いもしなかったんだよ。本当に…悪かった」
「もう…いい…」
「でも…っ!」
「もういいから…。本当は…嬉しかった。お前がオレの為にこの旅館を用意してくれたんだって知って…嬉しかった。凄く嬉しくて…幸せだと思った。だからもういい。もういいんだ…城之内」
オレの背に回した腕をギュッと押し付けて胸元に頬をすり寄せた海馬は、至極幸せそうに微笑んでいた。泣いたせいで目元は真っ赤だったけど、涙はもう零れていない。それを見てオレは海馬の両頬に手を当てて少し上に向けさせ、自分の顔をそっと近付けた。痛々しく赤く腫れた目元に舌を這わせ、塩辛い涙の痕を丁寧に舐め取る。そしてこめかみや頬に軽いキスを幾度も落とし、やがて辿り着いた耳元で祝福の言葉を囁いた。
「海馬、誕生日おめでとう」
そのたった一言で、海馬は今まで以上に身体を密着させてきた。そしてオレの胸元に顔を埋めている為にくぐもる声で「ありがとう…」と呟く。
「もう…こんな思いはさせないでくれ…。ただ側にいてくれるだけでいいんだ…城之内」
「うん、約束するよ。ずっと側にいるからな」
外はもう、秋の夜の空気でしんしんと冷えている。けれどここはとても暖かかった。それが暖房のせいだけじゃない事はよく分かっている。
触れ合う場所から感じるお互いの体温、そして大好きな相手と想いを分かち合うという暖かさに、オレ達は随分長い事浸っていた…。