悲劇はもう沢山だと思った。
 目に見える全てが悲劇そのものだったから。
 この千年間の間、何人もの贄の巫女が鬼に食され、その命を灯を燃やし尽くして儚くなっていくのを見ていた。
 もう見る事も…聞く事も…、その悲劇を間近で感じる全てが嫌だった。
 けれどそこから逃げ出す訳にはいかなかった。
 逃げずに全てを見守る事が…自分に課せられた罪だったから。
 だからずっと待っていた。
 この悲劇の幕を降ろす者が現れるのを…ずっと待っていたのだ。

 




 その年の冬至の朝は、去年と同じようにどこまでも澄み切った空に真っ赤な朝日が輝いていて本当に美しかった。
 出発は昼過ぎ。朝食に白湯と茹でた野菜と少量の果物を口にしただけの海馬は、それからはずっと縁側に座り込んで空を眺めている。
 見届けの巫女の話により、贖罪の神域の空がこんなに綺麗ではないという事は知っていた。身届けの巫女も実際に自分の目で贖罪の神域を見てきた訳では無い。ただ月に一度、聖なる月の光が一番地上に満ちる満月の晩だけは、神域に閉じ込められている兄と話をする事が出来るのだそうだ。
 その兄との語らいで、見届けの巫女は贖罪の神域がとても薄暗く、まるで黄昏が永遠に続いているような感じだという事を知ったのだという。

「昼間はずっと薄暗いのだそうです。まるで日が沈む寸前の夕闇に覆われているかのように。ただ夜は昼間とは違って、澄み渡った空が見えるのだそうですよ。月も…星も…まるで手が届くかのように見えるのだそうです」

 ここ一年、贄の巫女としての最終的な修行の為に、海馬はほぼ毎日黒龍神社の本殿へと通っていた。そしてその場で顔を合わせる度に見届けの巫女は、海馬に贖罪の神域の情報を教えてくれていたのである。
 薄闇の牢獄。いるのは食人鬼と…そして贄の巫女である自分だけ。他には誰もいない、閉ざされた神域。
 自分はそこで月に一度食人鬼に食され、十年後には生命力を使い果たし死んでいかねばならない。

「もう…この青空を見る事は一生無いのだな…」

 そう思うと、流石に少し感傷的になった。
 真冬の冷たい風に吹かれて、ただ黙って空を見上げ続けていると、背後に人の気配を感じた。そしてその気配が自分に向かって深々と頭を下げ、こう告げる。

「兄サマ。黒龍神社へ向かう準備が整いました」

 この一年、自分と同じように新しい海馬家の当主としての修行を積んだ、弟のモクバだった。
 一年前の冬至の日、不幸な運命に自分の腕の中で大泣きしていた子供は、ここ数ヶ月で随分と立派に…そして何より大人になった。兄との約束通り、あの日以来一粒の涙を見せる事も無く、当主としての力量を確実に身に着けていったのである。

「そうか…。済まないな、モクバ」

 着ていた神官着を整えながら立ち上がった海馬に、モクバはもう一度軽く頭を下げた。

「兄サマ…。申し訳ありませんが、オレは本殿までは御一緒出来ません…。どうかここでお見送りさせて下さい」
「モクバ…」
「本当にゴメンナサイ。けれど…最後まで一緒に付いていってしまったら、オレはきっと兄サマとの約束を破ってしまう。せっかくこの一年、泣かないで頑張ってきたんです。最後まで…頑張らせて下さい」

 眉根を寄せて辛そうに表情を歪めながらも、それでもモクバは涙を流しはしなかった。
 その辛そうな表情が幼い顔には不釣り合いで、海馬は思わず弟を抱き締めたくなってしまう。けれど、そんな事をしたらモクバのせっかくの努力が全て台無しになってしまう事も分かっていたので、海馬は敢えて弟には一切触れずにその脇を通り抜けた。
 モクバの脇を通り過ぎ、奥の襖を開きながら海馬は一度だけ振り返った。
 美しく手入れがされた中庭を眺めるように、弟は背筋をぴんと伸ばして座り込んでいる。こちらの気配には気付いている筈なのに、彼は決して振り返ろうとはしなかった。
 本当に強い子だ…と、その姿を見て海馬はそう思った。そして心から安心する。
 モクバがいれば、この海馬家は安泰だ。何も心配する事は無い。オレは安心して…努めを果たしに行ける…と。
 さようならは言わない。言えない。
 その代わり…感謝の言葉を。

「モクバ…、ありがとう」

 一言だけそう伝えて、海馬は部屋を出て廊下を進んでいく。
 モクバから視線を外すその一瞬、弟の肩がピクリと反応したのを見たような気がした。けれども、それを確かめる事はすべきではないという事もよく分かっていた。

 さようなら。

 心の中だけでそう呟き、海馬は顔を上げて真っ直ぐに進む事を胸の内で決めていた。


 用意されたリムジンに乗り込んで黒龍神社に着いた時、その入り口に同じような車が二台置いてあるのが目に入ってきた。
 考えるまでもない。この小さな町でこんな立派な車を持っているのは、三大分家と言われている武藤・漠良・海馬の三家しかいないのだ。

「武藤様も漠良様もいらっしゃっているようですね…」

 付き人の声に「そうだな」と返しながら海馬は振り返った。そして自分をここまで送ってくれた付き人に「もう帰れ。モクバを頼む」とだけ告げる。
 その言葉で付き人も哀しそうに表情を歪ませ、次の瞬間にはその場で深々と頭を下げた。
 付き人が車に戻るのを確認する事も無く、海馬はくるりと背を向けるとそのまま神社に向かって歩いていった。長い参道の階段を上り鳥居を潜ると、奥に見える本殿が物々しい雰囲気に包まれているのが分かる。
 気にせずいつものように本殿に上がり込むと、奥の方に一人の女性が横たわっているのが見えた。それと同時に、手前に座っていた二人の人物が振り返る。
 確認するまでもなく、それは遊戯と了だった。

「海馬君…っ」

 海馬の顔を確認し、遊戯は辛そうに俯いてしまう。同じように辛そうな顔をしながらも、了は寂しそうな笑みを浮かべて海馬と奥に横たわっている女性の亡骸とを見比べていた。

「いつだ…?」
「今朝だよ。日の出と共に還って来られたんだ。漠良家の出身の巫女だからって事で、僕が直接迎えに行ったんだよ」

 女性を見ながら尋ねた海馬の言葉に、了が直ぐさま答えを返した。
 贖罪の神域は、普段は完全に閉じられた空間だ。だが、十年に一度の冬至の日だけは特別で、日に二回だけ神域への門が開かれる。
 日の出に一回、日の入りに一回。
 前者はそれまで役目を果たして来た贄の巫女を現世に還す為に。後者は新たな贄の巫女を迎え入れる為に。
 門が開いている時間は多分一分にも満たないだろう。更にそこを潜れるのは贄の巫女一人だけ。他の人間はほんの少し踏み込む事は出来ても、完全に潜る事は出来ないのである。

「本殿と鳥居の丁度中間辺りかな。日の出と共に空間が割れていったんだ。まるで大きな門が開くように…。不思議な光景だったよ」

 了は海馬から横たわる女性の方へと視線を移し、ふぅ…と軽く息を吐いた。

「門の向こうにね、巫女を横抱きにした人が立っていたんだよ。僕が贄の巫女じゃなかったからかな…靄がかかって向こうの世界は良く見えなかったんだ。殆ど影にしか見えないその人が近付いて来て、そして僕に直接巫女を手渡してくれたんだよ。はっきりと顔を確認した訳じゃないけど、何だか普通の人間のように見えて拍子抜けしちゃった。だってずっと怖い食人鬼だって、小さい頃から教えられて来たからさ。あ、でも手は冷たかった。巫女を受け取る時に一瞬手に触れたんだけど、まるで氷のようだったよ」

 了の言葉を聞きながら、海馬はそっと横たわる女性の側に近付いていった。
 美しい女性だった。了の叔母だという事は聞いていたが、やはりどことなく了に似ていると感じる。
 その死に顔は安らかだった。巫女としての格好をしている為全部に目を通した訳では無いが、一見したところ、どこにも傷や怪我等は見られない。まるで眠っているようだった。眠っているだけと言われればそれを完全に信じてしまいそうな程、その死体は綺麗だったのである。

「お役目…ご苦労様でした…。後はオレに任せて下さい」

 背後に控えている遊戯や了には聞こえないくらいの小さな声で、海馬はそっと女性の亡骸に告げる。そして心に強く誓いを立てた。
 何もかもが悲劇だった。千年前のあの事件から、ここに至るまでの全ての事象が悲劇で彩られていた。

 食人鬼の陰謀により騙された村人。
 その村人の裏切りにより穢された恋人。
 耐えきれぬ事実に精神を壊し暴走した神官。
 九十九人の村人と最後の一人だった恋人の犠牲。
 罪を問われ龍神に幽閉された神官と、共に罪を償う事を覚悟した妹巫女。
 鬼に変わった神官に贄の巫女をおくりつつ、やがて救いをもたらす者が来るのを待ち望んでいた三大分家。
 鬼の命を繋いでいく為だけに十年間食され続け、やがて死んでいく運命の贄の巫女。
 そんな贄の巫女を涙ながらに送り出す三大分家の家族達と、それを千年にも渡って見届けてきた妹巫女…。

 血と涙と炎と、悲しみと苦しみと悔恨と…。
 それら全てが悲劇そのものである事に、海馬は胸を痛めていた。そして自分の力で、この悲劇に幕を下ろそうと強く心に決めていたのである。

「贄の巫女様」

 女性の亡骸に強く誓いを立てたその時、本殿の入り口の方から名前を呼ばれて海馬は振り返った。そこにいたのは巫女姿の少女で、その顔には見覚えがある。いつも見届けの巫女の側に控えている少女だった。
 海馬と視線が合うと少女は深々とお辞儀をし、見届けの巫女からの伝言を伝える為に口を開く。

「贄の巫女様…。見届けの巫女様が少し話したい事があるので、本家の奥の部屋まで来るようにと…」

 少女の言葉を受け取って、海馬は「分かった」と答え頷いた。そして心配そうに自分を見上げる遊戯と了に視線を巡らせ、何も言わずに本殿から出ていった。